2013年10月4日金曜日

FJ 2 Q&A

Q&A

2 「慰安婦」は「公娼」だったか?

「慰安婦」=「公娼」ではない

「慰安婦」被害の存在を否定する人たちの代表的な主張に、次のようなものがあります。
「日本軍に組み込まれた「慰安婦」は“セックス奴隷”ではない。世界中で認可されていたありふれた公娼制度の下で働いていた女性たちであった。慰安婦の多くは佐官どころか将校よりも遥かに高収入であり、慰安婦の待遇は良好であったという証言も多くある。」(“THE FACTS”『ワシントン・ポスト』2007年6月14日)
公娼制度というのは、特定の業者と女性たちが売春業を営むことを公認し、警察に登録させる制度のことです。戦前の日本はこの公娼制度を採用していました。つまり、上記の主張は、「慰安婦」は当時公認されていた「売春婦」であったと言っているのです。

しかしこの主張は間違っています。「慰安婦」=「公娼」ではありません。なぜなら「慰安婦」にさせられてしまった被害者たちの多くが公娼制度や売買春とは何の関係もない女性たちだったからです。「慰安婦」被害者たちは日本軍や日本軍に命令された業者たちによって、暴力や詐欺・人身売買などの方法で徴集され、慰安所で軍の管理下で性奴隷状態を強いられたことが明らかだからです。「慰安婦」にさせられた女性たちは、軍の許可なく「慰安婦」をやめたり、自由に行動することはできませんでした。このように、後述する公娼とは異なり、軍や軍の命令によって徴集され、軍の管理下で軍の許可なくやめる自由もなく「性奴隷」状態を強いられた点に、日本軍「慰安婦」の特徴があります。

公娼制度とは何か

では、戦前日本の公娼制度とはどのような制度なのでしょうか。戦前日本の公娼制度は、近世以来遊廓や宿場だった地域をはじめとし、特定の地域における特定の業者と女性に売春営業を公認するというものでした。性病蔓延防止という目的で女性たちには性病検査が義務付けられており、この性病防止と強かん防止というのが公娼制度を正当化する論理でした。戦前日本社会では、こうした制度の下で多くの貧困な女性たちが売春をしていたのです。

そこで重要な点は、娼妓(公娼制度下で売春を公認されていた)をはじめ、芸妓(歌舞音曲を本業とするが、しばしば売春を強いられた)・酌婦(売春を黙認されていた)などはその稼業につく際,年期を定めて店と契約を結びますが,親が契約の当事者、ないしは連帯保証人となり,実質上親が受け取る前借金と呼ばれる借金をすることです。そしてその借金を返済するまで、娘は廃業する自由がほとんどなかったということです。つまり,彼女たちは親に売られたに等しかったのです。

親孝行や「家」のために尽くすことが美徳とされた戦前日本社会の道徳を利用され、彼女たちはこのような状態を強いられていました。しかも彼女たちの売春に対して客が支払った代金のかなりの部分は店の収入となり,その残りの彼女の取り分から借金を返済するので,返済には長期間かかり,途中で借金が増額して返済が不可能になることがしばしばありました。きわめて困難な借金の返済が終わるまで、人身の自由なく売春を強要される制度,それが日本の公娼制度でした。その結果,多くの娼妓が重度の性病などの病気にかかって死亡したり,自殺したりしました。

1900年に制定された「娼妓取締規則」では,前借金完済以前にも廃業の自由があることが明記されました(自由廃業)が、前借金契約は芸娼妓契約とは別の金銭貸借であるとみなされ、その返済義務自体は否定されなかったので,その他の手段で借金を返せる見込みのない娼妓・芸妓・酌婦は、ほとんど廃業の自由なく売春を強要され続けたのです。前借金の貸与は、娘を廃業の自由なく娼妓・芸妓・酌婦として働かせることを目的としていることは明白だったので、身売りの慣習を禁止するには、こうした前借金契約を違法化すべきだったのに、裁判所は遊郭主に有利な判断を下したのです。しかも以上のような非人道的公娼制度は,当時においても人々から「奴隷制度」と呼ばれており,婦女売買禁止の国際的基準からすると,当然廃止しなければならない制度となっていました。