2013年10月5日土曜日

FJ 4 Q&A

4 公娼制度は世界でも当たり前?

日本の公娼制度は「世界でも当たり前」ではなかった

「日本軍に組み込まれた「慰安婦」は“セックス奴隷”ではない。世界中で認可されていたありふれた公娼制度の下で働いていた女性たちであった。」とする見解に対して、「慰安婦」は「公娼」ではないし、公娼制度自体が当時の日本人の感覚からしても「性奴隷」制度であったこと、廃娼運動が展開され、1930年代半ばには公娼制度の廃止も検討されていたことは別項目で指摘しました。以上のように述べると、「公娼制度は日本以外の国にも存在していたのではないか、昔は貧しい女性の身売りはどの国にもあった商行為なのだからしかたがない」という感想がだされることがしばしばあります。

しかし、この見解は大きく間違っています。日本の公娼制度は「世界でも当たり前」の制度ではなかったのです。もちろん、公娼制度と呼ばれる制度を採用していた国は日本だけではなく、戦前にはヨーロッパにも存在しました。なかでもフランスは代表的な公娼国でした。しかし、警察が娼婦と娼家を登録するという点では似ていても,その下で行われていた慣習は各国で異なっていました。そして,日本の公娼制度下で行われていた慣習は、ヨーロッパの公娼制度とは異なり、ひときわ強く女性の自由と人権を侵害するものだったからです。これが日本の公娼制度が「世界でも当たり前」でなかった第一の理由です。



ヨーロッパの公娼制度との違い

戦前の日本では芸者や娼妓になる契約の際、彼女たち自身というよりはその親が遊郭や芸妓置屋から前借金と呼ばれる借金をし、娘に芸妓・娼妓稼業を通じて借金返済させるという契約を結び、したがって娘たちには借金返済まで廃業の自由がほとんどなかったと述べました。しかも客が支払った代金のかなりの部分は店の収入となり、その残りの自分の取り分から借金を返済するので、返済には長期間かかり、借金が増額して返済が不可能になることすらしばしばありました。そして、親孝行や「家」のために尽くすことが美徳とされた日本社会の道徳を利用されて、娼妓たちは廃業の自由のない売春を強いられ続けました。



しかし、たとえばフランスの公認娼婦は警察に登録して公認売春婦となりますが、廃業は容易にできることが指摘されています。また、公認娼家に借金をすることもありましたが、親孝行や「家」に尽くすことを美徳とする道徳を利用されて人身の自由なく性奴隷状態を強要されるようなものではなかったようです。つまり、親があらかじめ店から借金をし、その借金を娘が売春をして返済する、返済が完了するまで廃業の自由なく売春を強要される、しかも客の支払った代金の大部分は店の収入となるため借金返済が極めて困難で、逆に借金が増額することがしばしばある――といったような日本の公娼制度下のシステムとは異なっていたのです。



また、19世紀後半の一時期に警察による売春婦登録制度が導入されていたイギリスの公認娼婦は、移動も自由でどこかちがう地方へ行ってしまうことも可能だし、売春は彼女たちの人生の一時期の経験にすぎなかったことが指摘されています。公認売春宿で性奴隷状態に置かれていたわけではなかったのです。つまり、日本の公娼制度下で行われていた身売りの慣習は「世界でも当たり前」ではなかったのです。

公娼制度廃止がすすんでいた国際社会と日本の公娼制度

公娼制度が「世界で当たり前」ではなかった第二の理由は、同制度が女性の人権を侵害し、かつ性病予防にも役に立たないなどの理由で、19世紀末からすでにその廃止を求める運動がヨーロッパで活発化していたからです。たとえばイギリスでは、1864年に伝染病予防法が制定されて、軍隊駐屯地と軍港同法が施行されました。指定地域において売春婦とみなした女性を公認娼婦として登録して監視し、性病検査を義務付けることになったのです。しかしこのシステムは、ジョセフィン・バトラーをはじめとするフェミニストと労働者階級の強い批判のなかで廃止されました。男性の買春を認めて放任しておきながら、売春したとみなした女性の方についてはその市民的権利を制限して性病検査を強制するというのは、道徳の二重基準であり、性病検査は強かんに等しいと批判されたのです。こうした売春批判、公娼制度批判はヨーロッパ中に広がり、公娼制度を採用していたフランスなどでも公娼制度批判は強まりました。

当時のヨーロッパでは、移民の増大とも関連して拡大していた女性の国際的人身売買――当時はInternational Traffic in Women(国際的婦女売買)と呼ばれた――が問題化されており、公娼制度下の売春業者たちが婦女売買の温床になっていることが指摘されたのです。国際連盟が設立されると、公娼制度廃止問題・婦女売買禁止問題は同連盟の管轄となり、各国における公娼廃止と婦女売買禁止のための国際条約の制定がすすめられました。その結果、1920年代には、ヨーロッパ本国のみならず、東南アジアの欧米植民地(インドネシア、フィリピン、シンガポールなど)でも公娼制度の廃止が行われました。しかし日本はこうした欧米諸国とは対照的に,1910年代以降,台湾,朝鮮などの植民地,関東州,満鉄付属地などの勢力圏都市に,公娼制度をむしろ導入・拡張していったのです。



公娼廃止の趨勢と並行して、国際連盟では婦女売買を禁ずる国際条約も整備されていきました。1921年には国際連盟によって「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」が制定され、①21歳未満の女性を、たとえ本人の承諾があっても売春に勧誘してはならない、②21歳以上の女性を詐欺・強制的な手段で売春に勧誘してはならない、とされたのです。つまり、18歳以上の女性が娼妓になることと、彼女たちを遊郭へ斡旋する業種を公認している日本政府は、この国際条約で禁じられている行為①を禁止どころか国家公認していることになります。そして、前借金返済まで廃業の自由がないこと、前借金返済がきわめて困難なことを売春の強要とみなすならば、公娼制度全体が条約に違反していることになったのです。このように,植民地を含めて公娼制度を廃止し,かつ婦女売買禁止の国際条約を制定した欧米諸国の動向のなかで,日本の公娼制度はますます「あたりまえ」ではなくなっていたのです。



国際連盟「東洋婦女売買調査団」の訪日――公娼制度は婦女売買を促進している――

一方、国際連盟の婦人児童売買問題諮問委員会(Committee on Traffic in Women and Children)は、調査団を組織し、アメリカ大陸、北アフリカ、ヨーロッパ、そしてアジアにおける国際的婦女売買の実態を調査しました。そして、アメリカ大陸,北アフリカ、ヨーロッパを調査した後の1927年には、「公認売春宿は疑いなく人身売買(国内・国際両方)を促進しているのであり、公娼制度は悪徳の温床となっている」との結論を下しました。

加えて、1931年になると、国際連盟は「東洋婦女売買調査団」を組織し、同調査団はアジア諸国を調査後日本を訪れ、日本人女性が日本から中国大陸へ向けてたくさん売買されている実態を問題にしました。その際、ヨーロッパにはみられない、前借金によって女性の廃業の自由を妨げる慣習を厳しく批判し、同時に芸娼妓酌婦周旋業を禁止どころか公認していることを批判したのです。日本政府の公式の立場は、前借金契約と芸娼妓酌婦稼業契約とは別物であり、前借金の返済が終わらなくても稼業をやめることが可能なので、女性たちは売春を強要されていない、「自由意思」で働いているにすぎない、とするものでした。つまり、現実には前借金返済義務が、芸者や娼妓の廃業の自由を奪っていることを隠ぺいし続けたのです。こうした日本の官僚たちの答弁に対しては、当然、調査会議の場で調査団の厳しい追及がなされ、前借金契約と芸娼妓酌婦周旋業を違法にすべきことが示唆されたのです。



そして、この東洋調査の後の1932年になると、国際連盟の婦女売買問題諮問委員会は以下の結論を下しました。

“the Commission holds that the principal factor in promotion of international traffic in women in the East is the brothel and, in the chain of brothels which are at the disposal of the trafficker, particularly the brothel in the place of destination of the victim. The most effective remedy against the evil, therefore, is , in the Commission’s opinion, the abolition of licensed or recognized brothels in the countries concerned.”(「アジアにおける国際的婦女売買を促進している主要な要因は、人身売買業者が統制するところの売春宿のネットワーク,とくに犠牲者の行き先の地域での売春宿である。したがって、この種の悪徳に対するもっとも効果的な解決策は、公認売春宿もしくは黙認売春宿の廃止であるというのが委員会の意見である。」)

との結論に至ったのです。その後、同委員会は、公娼制度を持たない、ないしは公娼制度を廃止した15都市における実情の調査なども行っていますが(League of Nations Committee on Traffic in Women and Children, “Abolition of Licensed Houses”, Geneva, June 15th, 1934, Series of League of Nations Publications Ⅳ. Social, 1934. Ⅳ. 7, Official No.: C.221.M.88.1934.Ⅳ. 国立国会図書館所蔵)、世界50カ国が公娼をもともと持たないか、完全に、あるいは部分的に廃止したとしています(同上)。この時期には、公娼制度を維持していたフランス、そして、日本自身も地域によっては公娼制度を廃止していました。

このように、1920~30年代の国際社会では、公娼制度、とくに日本の公娼制度は、女性の人身売買を促進する主要因として、廃止しなければならない制度と国際連盟にみなされていました。そして、こうした国際社会の趨勢を受けて、日本政府も1934年にいったん公娼制度廃止を表明することになるのです(廃止には至りませんでしたが)。



〈主要参考文献〉:

小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から』吉川弘文館,2010年。
ジュディス・ウォーコヴィッツ『売春とヴィクトリア朝社会』上智大学出版,2009年。
アラン・コルバン『娼婦』藤原書店,1991年。