2013年10月14日月曜日

朝日 「東南アジアでは聞き取りしなかった」 2

インドネシア「非難声明、穏当にした」 慰安婦問題

 韓国で慰安婦問題が沸騰した後、日本政府は真相究明よりも東南アジアへの拡大阻止を優先して動いていた――。約20年前の外交文書を入手し、取材班はこの夏、インドネシアへ飛んだ。スハルト大統領の独裁下にあったインドネシア政府が日本の外交にどう対応したのかを知るためだ。

■スハルト氏の意向くむ
 インドネシア政府が日本の調査結果を非難する声明を出したのは1992年7月。声明を書いた当時の外務省政務総局長ウィルヨノ・サストロハンドヨ氏(79)が、ジャカルタの研究機関の自室で2度にわたり4時間半、取材に応じた。
 ウィルヨノ氏は声明に「強制売春」「女性たちの尊厳は日本政府が何をしても癒やされない」など厳しい言葉を並べたが、「本件を大きくすることを意図しない」と結んだ。スハルト氏の意向をくみ、穏当にまとめたつもりだった。
 「本当はもっときつい声明を書きたかったが、大統領に従わなければならなかった。つらかった」
 それでも、ジャカルタの日本大使館幹部はすぐに抗議してきたという。ウィルヨノ氏は「なぜこんな声明を出したのかと言われ、被害国として当然だと反論した」と顔をゆがめた。
 両国は58年に戦争賠償を決着させ、関係を深めた。日本からの途上国援助(ODA)は2011年度までに累計5兆2千億円超で国別で最大だ。インドネシアから見ても日本は最大の援助国。スハルト氏は日本を重視し、98年の政権崩壊まで戦争被害に冷たかった。
 慰安婦問題の国内対応を担ったインテン・スエノ元社会相(68)は、ジャカルタにある邸宅で取材に応じた。東南アジアへの拡大を防ぐ当時の日本政府の姿勢を「理解できる」と語った。スハルト氏の強い意向を知っていたので、日本政府に聞き取り調査を求めるつもりはなかったという。
 東京で日本側から抗議された元公使のラハルジョ・ジョヨヌゴロ氏(72)にも会えた。記憶は薄れていたが、「日本との友好を維持するため少しの間違いも許されない雰囲気だった」と語った。
■日本「他国をあおりたくなかった」
 日本政府の本音は何だったのか。取材班はインドネシアから帰国し、慰安婦問題を担った約20人の政府高官や外務官僚を訪ね歩いた。直接取材に応じたのは12人で、うち実名報道を承諾したのは5人だった。
 その一人、全省庁の官僚を束ねていた石原信雄・元官房副長官(86)は「シビアに問題提起してきたのは韓国だけ。他国から問題提起されていないのに、進んで調査する気はなかった」と証言した。東南アジアで聞き取りをしなかったのは、相手国の行政実務に問題があり、調査対象の元慰安婦を的確に探し出せるか疑問だったからだという。
 石原氏は「外務省の末端の行動は知らないが、政府がもみ消しに回ったことはない。政府がかかわる以上、公平性、正確性は非常に重要だ」と力説した。
 だが、石原氏の下で奔走した当時の内閣官房担当者の説明は違う。「我々も外務省も静かに済ませたかった。韓国以外で聞き取りをする感じではなかった。現実の政策はそういうものだ」。別の担当者も「他国をあおりたくなかった。韓国での聞き取りで幕引きにしたかった」と語った。
 インドネシア外交を担った外務省OBはインドネシア政府の声明に抗議したと認め、「問題が大きくなったらやりにくくなる。いい加減にしてほしいという圧力だった」と証言した。
 情報公開で得た外交文書とは別の内部文書も取材で見つけた。インドネシアの声明に対し、ODAを進めた大使経験者が「いろいろやってるのに、そんなことを今さら持ち出すとはなんだ」と非難していた。
 河野洋平元官房長官には6月と10月に取材を申し込んだが、事務所を通じ「取材はお受けしない」と回答があった。外務省は「当時の経緯を確認中」としている。
■多くは90歳前後「次会うときは死んでいるかも」
 インドネシアでは90年代、民間団体の呼びかけに約2万人が旧日本軍から性暴力を受けたと申し出た。慰安婦ではなかった人もいるとみられるが、実態は不明だ。
 ジャワ島から600キロ離れたスラウェシ島は、支援組織が根を張る。日本政府は国内での資料調査でこの島に21カ所の慰安所があったことを確認したが、現地で聞き取りはしなかった。取材班は7月、支援組織から紹介を受け、慰安婦だったと名乗る女性や目撃者ら約20人と会った。多くは90歳前後。つらい記憶を胸に生きてきた体験を時に涙を流しながら語った。
 南西部ピンラン県のイタンさんはトタンで作った約10畳の小屋に住む。日本兵に連行され、終戦まで数カ月間、木造の建物で連日のように複数の兵士に犯されたと証言した。「今からでも日本政府にちゃんと償ってほしい。せめて子や孫に家を残したい」と訴えた。
 ミナサさんは自宅そばの森で2年間、強姦(ごうかん)され続けたと訴えた。足腰が弱り介助がないと歩けない。「今度あなたと会う時は、私はもう死んでいるかもね」
 河野談話の前年、インドネシアで初めて元慰安婦だと名乗り出た女性は約10年前に他界した。彼女の生涯をたどる映画が今夏、ほぼできた。制作にかかわったジャーナリストのエカ・ヒンドラティさんは「慰安婦問題が未解決のままであることを、若い世代に伝えたい」。風化への懸念が募る。

朝日 2013.10.13
http://www.asahi.com/politics/update/1013/TKY201310120358.html