2013年10月7日月曜日

日本人慰安婦 1

「登志子」の場合

坂を登った閑静な住宅街の一角にあるその養老院は、ひっそりとしたたたずまいだった。白いモダンな建物は、まだ建ってまもないのだろう、ひときわ白さを誇っている。千葉県の木更津にあった第二海軍航空廠が設置した慰安所を調べていた私は、そこにいた元軍人と話すうちに、三軒町の慰安所にいた日本人「慰安婦」であった女性の所在を知ることになった。

 当時木更津には、三軒町と六軒町という慰安所街があった。三軒町にあった慰安所は、「純粋な」軍隊慰安所である六軒町とは異なり、一般客とともに軍人も来ていたところだ。しかし国内の慰安所の実態がなかなか見えない中にあって、そこにいた女性に会えるということは大変な巡り合わせだった。

 彼女がいる養老院に電話をして、「戦争のときの話を聞きたい」旨を伝えたが、見ず知らずの者からの突然の電話に彼女は困惑し、言葉は途切れがちだった。しかし彼女は、その電話で私か訪ねていくことを承諾してくれた。

 看護婦さんに、玄関を入ったホール脇の応接室に通され、私は彼女が姿を現すのを待った。

  「どうも、お待たせしました。寒い中をこんなところまでわざわざ……」

 軽い会釈をして入って来た彼女は、ここ十年ほど腎臓と肝臓を患っているのだと言いながら、顔色の悪い頬を両手で覆った。

  「寒いと辛いんですよ。まだここに入って1ヵ月ですから、なかなかここの空気に馴染めなくて。散歩に出られないので、廊下を歩くだけの生活です。ここにいる人はボケてしまっている人が多くて、友だちもできない。早くここを出たい……」

 夫が亡くなって十二年になる。しばらくしたら、夫の先妻の息子の家に引き取ってもらえるかもしれないと、茶碗で手を暖めながらかすかな期待を口にした。

  「この年になって、私の人生を聞いてくれる人に会えるなんてねえ……」

  一九一九年(大正八年)生まれの彼女の人生は、戦争を抜きにして語ることはできなかった。

  「私は埼玉の生まれなんですよ。父は新潟の生まれで、屋根まで雪が積もるような地で育ったけれど、母と結婚してから埼玉に移り住んでいました。父は鉄道に勤め、ごく普通の家庭だったのですが、私か十六になった年に、生後百日ぐらいの弟を残したまま、母は赤痢で亡くなってしまったのです。私は長女で、下には四人の弟と妹が一人いましたから、高等小学校を出るとすぐに私は弟たちの面倒をみるため家に入り、家族の世話に明け暮れました。

 ところが母が死んで四年後に、今度は父が脳溢血で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。弟たちの面倒は、長女の私にすべて降りかかってきたのです。父が残したお金はすぐに使い果たし、食べていくために私は働きに出なくてはなりませんでした。といって、その頃六人家族を支えるような給金をもらえる仕事は、そう簡単に見つかりませんでした。

 そんなとき、私の従姉妹が訪ねてきたのです。彼女は木更津の遊郭に五年間いたのですが、年季が明けたといって帰ってきました。そして私の事情を知ると、『あんたも木更津に行きなさい。私か紹介してあげるから』と勧めたのです。他に就職のあてもなかった私は、従姉妹の『そこに行けばお金が儲かる』という言葉に魅かれて、ついに行く決心をしました。

 鈴木楼に行き、契約を済ませると一二〇〇円の前借金をもらいました。二〇〇円は私の着物代などに当て、残りの1000円を家族に渡したのです。弟たちには、住み込みの工場に働きに出るのだと言いました。どうして遊郭に入るなどと言えたでしょう。家にはばあやか来てくれることになり、弟たちの面倒の心配はなくなりました。

 私か鈴木楼に行ったのは、昭和十六年のことです。私は二三歳になっていました。三軒町には、鈴木楼のほかにあと二軒の遊郭があり、女は三人から五人ぐらいの小さな家でした。六軒町は航空隊ができてから建てられたものですが、三軒町は昔からあった遊郭です。鈴木楼には(私のほかにも親に売られて秋田から来た娘もいました。主人は私に『登志子』という名前をつけました。ほかにも『かおる』『絹子』『信子』といった女性がいました。

 店を入ったところに私たちの写真と名前が貼ってあり、客はそれを見て女を決め帳場でお帳場さんに料金を払い、選ばれた女が呼ばれたのです。そこに来るのは一般人に混ざって兵隊もいました。しつこい人やいやなことを要求する人もいて……ひどい乱暴を受けることはありませんでしたが。

 下士官は一日おきに外泊ができ、日曜日に限らず平日でもやってきました。来ても戦争のことは一言も話しませんでした。私も聞きはしませんでした。ただ、兵隊が大勢来た日など、兵隊たちはぼっそり『明日、敵地に行くんだ』と言ったものです。そうすると私もついつい慰めてあげたいという気持ちになったものです。あの頃は、こんな商売でもお国のためになるんだと思っていました。

 一時間二円で、一日十人から十二、三人ぐらいがやってきました。一晩に泊まりが五人いて、かけもちで回ったこともあります。いつも眠くて眠くて、朝飯を食べるとすぐに眠ってしまうのですが、すぐにまた起こされて。

 鈴木楼にいったとき、私は処女でしたからとても辛かった……囗では言えません。でも、逃げ出したら家族に迷惑がかかると思うと、それもできませんでした

 それでも楽しみもあったんですよ。毎週、木更津の映画館に行くことが許されていたんです。その帰りにおしるこを食べたり葛餅を食べたりしたこともありました。楽しい思い出といったら、それだけですね。わずかな小遣いの使い道でした。給料は、十日ごとに計算されましたが、借金や食いぶちとか雑費などが引かれて、手元には十円ぐらいしか渡されない。それも映画を観たり髪結いさんに行ったりすればすぐに無くなってしまいます。それでも弟たちのことを考えると、少しでも貯金しなくてはと思い、日掛けで一日五〇銭を貯金のため主人(楼主)に渡しました。暮れになると主人からもらって、正月の準備に使うようにと、家に送りました。もちろん正月に私か帰ったことなどありません。弟たちには手紙を出しました。工場の仕事が忙しくて帰れないと・・・・・・。

 兵隊の場合は、必ずコンドームを二個ずつ持ってきました。性病の検診は週に一回、千葉から来る医者に診てもらいました。木更津にも産婦人科の医者はいたのですが。そのときに梅毒の予防だといって六〇六号の注射を射たれました。検査のときには、他の家の女たちと一緒になるのですが、ほとんど話すことはありませんでした。愚痴をこぼすことはあっても、みんな自分の素性は話しません。こんな中で、親しい友人なんてできるわけがないですよ。みんな自分のことで精いっぱい。他人を頼ろうなんて考えもしませんでした。

 ただ私は、そこに来た一人の男と気持が通じ合って、結婚の約束をしていたのです。ところがそのうち彼は兵隊にとられて中国に行ってしまいました。それでも私は、彼が迎えに来てくれるのを待っていました。

 終戦になったある日、突然その人が『ただいま』と言って帰ってきたんですよ。もう嬉しくて嬉しくて。その少し前にいろいろあって、警察が私の借金の残額を調べてくれたことがあり、もう返済が済んでいることが分かっていたんです。それで私はその人と結婚し所帯をもちました。一緒にいた女の中にはそのままGHQ相手の慰安所に残った人もいます

 でも、私の幸せも朿の間でした。四年後に夫は事故で亡くなってしまったのです。何年かして再婚しましたが、結局子どもは生まれませんでした

 いつのまにか外は、風が出てきた。大きなガラス窓の外で、手入れの行き届いた木々が寒そうに枝を揺らしている。長い時間が流れていた。

 沈黙をおいて、彼女はポツンと言った。

  「自分の人生を振りかえると、ただただ情けない。弟や妹のために仕方なかったけれど、両親さえ生きていたなら、私はこんな人生を歩まなくても良かったのにと、ついついそんなことを考えてしまいます。生きていくためだったけれど、一度狂った人生は、もう二度とやり直すことなんてできないですよね。恨むといっても、だれを恨むわけではないが……」

 慰安所政策が押し進められた裏側には、女たちの人生の苦悶がある。経済困窮を背景に遊郭に吸収されていった日本人女性のケースも、たとえ騙されたり強制的徴集ではなかったにしろ、時代の犠牲としてだけで見つめるには、彼女の苦悶はあまりに出口なき彷徨ではないだろうか。

日本軍「慰安婦」を追って P.26-31