2013年11月28日木曜日

朝日 慰安婦問題は日韓間だけの問題ではない

慰安婦問題、インドネシアの女性証言 「日本軍のテントに連行された」

慰安婦問題は日韓間だけの問題ではない。日本政府が約20年前、東南アジアへの波及を防ぐ外交を水面下で進めていたことを朝日新聞は報じた。1942年に日本が占領したインドネシアには、現在も「旧日本軍から性暴力を受けた」「慰安婦だった」と証言する女性がいる。被害状況さえ解明されないまま置き去りにされた彼女たちに会いに行った今夏の取材を報告する。

 赤道直下に浮かぶインドネシア・スラウェシ島には元慰安婦の支援団体がある。これまで団体が聞き取りをしていない人を紹介してほしいと依頼した。

 最初に会ったのは島南西部のシンジャイ県に住むベッチェさん。築数十年の高床式の家を訪ねた。80代半ばで曲がった腰にサロンと呼ばれる布を巻いている。未婚で親戚一家の元に身を寄せている。

 記者は「当時、日本兵に何か怖いことをされたのですか」と切り出した。インドネシアは地域によって言語が異なる。日本語からインドネシア語、そして地域語へ、2回の通訳を経て質問は届く。彼女はつぶやくように話し始めた。

 「あの時、私は10代半ばでした。ある暑い日の夕方、2人の男が家で料理をしていた私を無理やり外に引っ張り出しました」

 男たちはインドネシア語ではない言葉を話し、銃を持っていた。それを見てベッチェさんは日本兵だと思ったという。10分ほどで彼女の目は涙であふれた。

 「娘を連れて行かないでくれ」と叫ぶ父親の目前でベッチェさんはトラックの荷台に押し込まれた。他にも同年代の女性が乗っていたという。着いた場所には「日本軍のテントが張ってあった」。そのうちの一つに連れて行かれ、複数の男に犯されたと語った。

 当時、その場所に出入りしていたというインドネシア人男性・ハムザさんに話を聞くことができた。「日本軍が三つテントを張って7人の女性を閉じ込めていた。そこで彼女(ベッチェさん)を見た。連行したのは地域を管理していた日本兵だ」。当時、若い女性が日本兵の慰安婦にされることが地域で恐れられていたという。

 ベッチェさんは約3カ月後に解放された。だが、家族から「汚い人間は必要ない」と家を追われた。裸足で丸2日歩いた末、知人の住む村で畑仕事を手伝いながら生き延びたという。「これまで何もしてくれなかったインドネシア政府に腹が立つ」。取材を終えた時、紅潮した顔が涙でくしゃくしゃになっていた。

 ■「大きな建物 たくさんの小部屋」

 取材班は、女性たちが被害を受けたと証言する現場を探した。

 島南西部のピンラン県に住むイパティマンさんの証言は詳細だ。当時、働いていた製糸工場内で小銃を持つ男に腕をつかまれた。インドネシア人の顔つきではなく日本兵だと思った。トラックで15分ほど走った所にあるマリンプン地区に連れていかれたという。

 「大きな木造の建物に入れられました。廊下を隔ててたくさんの小さな部屋がありました」。そこに日本兵が次々にやって来て辱めたという。「大声で叫びました。怖くて涙が止まりませんでした」。3カ月後に解放されて間もなく、戦争は終わったという。

 取材班は彼女の家から10キロほどのマリンプン地区に入った。古くから近くに住むタヒルさんという男性が広大な牧草地に案内し、「昔、ここにはたくさんの日本兵がいた。大きな基地だった」と話した。建物跡は見つからなかったが、日本軍がいたという裏付けになる証言だ。

 イパティマンさんは自らが働いていた工場を営む日本企業を正確に覚えていた。今もある大手企業だ。

 取材班は彼女の証言を頼りに、工場があったとみられるピンラン県パチョゲン地区の住宅街の一角に向かった。民家ばかりで工場を思わせる痕跡はない。近くに住むイカラウさんという女性に出会った。

 イカラウさんは、こちらが教えていないのに、イパティマンさんの証言と同じ日本の企業名を言い、「日本軍がいた当時、ここに工場があった」と話した。さらに「母親からは『工場に近づいてはいけない。日本人の嫁にさせられる』と言われた。みんな恐れていた」と続けた。

 取材班は当時の資料にもあたった。スラウェシ島は当時、「セレベス島」と呼ばれた。終戦後、旧日本軍がオランダ軍の求めに応じて作成した「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」には「ピンラン分県ピンラン町」に慰安所があったとある。それがイパティマンさんの言う場所かは不明だ。大手企業に取材すると、スラウェシ島に工場があったとの記録は残っているが、それがパチョゲン地区なのかは「確認のしようがない」とのことだった。

 ■「全土300人以上」の記録も

 日本はインドネシアとの個別の平和条約(58年発効)に基づき約2億2千万ドル(約803億円)を賠償し、戦後処理の一環として約1億8千万ドル(約637億円)の経済協力などを実施した。慰安婦問題の償い事業のため、日本政府の主導で95年に設立された「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)も償い金として3億7千万円を支援。インドネシア社会省は高齢者福祉施設69カ所の建設や修繕費に充てた。

 基金の記録によると、スラウェシ島の21カ所を含め、インドネシア全土には少なくとも40カ所弱の慰安所があり、300人以上の慰安婦がいた。これらの数字は「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」などに基づくものだ。

 基金は調査報告書でインドネシアには中国、朝鮮、台湾出身の慰安婦もいたが、「多くは村落社会から募集された」と指摘。軍が管理した慰安所以外に「特定の部隊が独自に女性を集めて自分たちだけが利用した私設の慰安所のようなところ」もあったとした。

 93年に現地調査した日本弁護士連合会は女性8人から「慰安婦にされた」との証言を得た。その報告書に「慰安所が各地に設けられ、若い女性が性的関係を強要された」とまとめた。

 ■内容は克明、答えに矛盾なし

 取材班は今年7月、スラウェシ島に約2週間滞在し、元慰安婦や目撃者と名乗る約20人と会った。インドネシアには多様な地域語があり、多くの場合、日本語からインドネシア語、そして地域語に2度の通訳を介して話を聞いた。取材を拒む人や、記事にしない条件で話す人もいた。

 彼女たちの証言を完全に裏付ける資料は見つからなかったが、内容は克明で信用できた。連行の様子や閉じ込められた部屋の特徴、どんな辱めを受けたか、解放後どうやって帰宅したか、どれも具体的だった。

 金銭を受け取ったか、どうして逃げなかったのかという話しづらいことも聞いた。金銭を受けたという人はおらず、見張りや仕返しが怖くて逃げられなかったという答えが相次いだ。同じことを角度を変えて何度か聞き直しても答えに矛盾はなかった。70年たった今も彼女たちは苦しみ続けていた。

 (鬼原民幸、板橋洋佳)

 <報道の経緯>

 朝日新聞は90年代の慰安婦問題に関する数千枚の外交文書を情報公開で入手し、当時の政府高官らの証言とあわせ、慰安婦問題の拡大を防ごうとした日本外交の裏側を10月13日付朝刊で詳報した。日本政府が当時、韓国で大きくなった慰安婦問題が他国に波及するのを恐れ、東南アジアで聞き取り調査をしなくて済むよう動いていたという内容。

 ■日本兵から性被害を受けたという女性たちの主な証言

【名前】 証言内容

     *

【テンバ】 自宅から連行。昼は紡績工場で強制労働、夜は宿舎から出られず。特定の日本兵が毎週のように部屋へ。4カ月後に解放。家族に打ち明けてこなかった。

【イタン】 市場から複数の女性とともに連行。3畳ほどの部屋で3カ月間、何人もの日本兵の相手に。自殺も考えた。今も寝る前や食事の時に記憶がよみがえる。

【チェンボ】 道端で物売り中、常連の日本兵によって連行。3カ月の監禁後、その日本兵と結婚し妊娠。終戦で離別してから連絡が取れず、1人で子どもを育てる。

【ミナ】 畑の帰りに父親の目の前で連行。1年以上、毎日複数の日本兵に辱められる。誰も避妊せず2回妊娠し、流産した。銃で殴られ右目を失明した。

【ミナサ】 自宅近くの森に連行。草を布団代わりにして犯される。終われば帰宅できたが、3人の日本兵がほぼ毎日やって来た。今も日本人が怖く、憎んでいる。

【アティ】 自宅から日本軍管理の石灰工場へ連行。朝から働き、午後は部屋に複数の日本兵が。数カ月後に隙を見て逃亡。心が壊れた体験で、詳しく話したくない。

【サニアガ】 村長に命令され日本軍の施設に。強制労働中に何度も「バッキャロー」と言われた。自分の経験は話せないが、日本兵の子を妊娠して殺された女性もいた。

 (敬称略。すべて取材班への証言。現在の年齢はいずれも80~90代)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201311270675.html?_requesturl=articles/TKY201311270675.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201311270675

2013年11月18日月曜日

パク・クネ 歴史認識

ベトナム訪問の朴大統領 過去の戦争の歴史で謝罪せず

 【ソウル=黒田勝弘】ベトナム訪問中の朴槿恵(パク・クネ)大統領が過去の戦争の歴史について謝罪発言などまったくせず、ベトナム側も何ら要求していないことが韓国で話題になっている。10日付の新聞論調では、韓国が日本に対してしきりに「歴史直視」を要求していることと矛盾するではないかとの皮肉も出ている(ハンギョレ新聞社説)。

 韓国は1960~70年代のベトナム戦争で米軍支援のため延べ30万人以上の部隊を派兵し、部分的に“住民虐殺事件”もあったとされる。ベトナム統一後、両国は92年に国交を結んだが、ベトナムは韓国に対し謝罪や反省、補償など一切求めなかった。

 しかし2001年、金大中(キム・デジュン)大統領がベトナム訪問の際、「不本意ながらベトナム国民に苦痛を与えたことを申し訳なく思う」と“謝罪”した。これに対し当時、野党だった朴槿恵ハンナラ党副総裁は「金大統領の歴史認識を憂慮せざるを得ない。参戦勇士の名誉を傷つけるものだ」と批判した経緯がある。

 ベトナム派兵は父・朴正煕(チョンヒ)大統領(当時)の決断で行われたものだが、朴槿恵大統領は今回の訪問に際しベトナムの国父ホー・チ・ミンの廟(びょう)参拝、献花の時を含め戦争の歴史にはまったく触れず、もっぱら経済協力問題に終始した。

中央日報は1面トップ記事で「父の時代の歴史に対する和解」とし「過去についての両国の成熟した立場と、間違った歴史認識にとらわれている日本を比較することになる」「日本への圧迫の意味もある」と奇妙な解釈を加えている。

 朴槿恵大統領が謝罪をしなかった背景には、ベトナム戦争を米韓による侵略戦争とするベトナム側と「自由を守るための戦争」とする自らとの間に歴史認識の違いがあるからだ。

 にもかかわらずベトナムが韓国に歴史認識の一致や謝罪、反省を求めず未来志向の協力関係を重視する“成熟”した態度は、日本ではなくむしろ韓国の対日姿勢に対する教訓であり“圧迫”になるものだろう。

 一方、韓国マスコミはベトナムが60年以上も植民地支配したフランスに対して謝罪や反省、補償など一切求めていないことにはまったく触れていない。


http://megalodon.jp/2013-1112-2019-52/sankei.jp.msn.com/world/news/130910/asi13091021240000-n1.htm
http://megalodon.jp/2013-1118-2049-21/sankei.jp.msn.com/world/news/130910/asi13091021240000-n2.htm

2013年11月13日水曜日

森本敏

-対中・対韓関係は今後どう進めるべきか。

 「いわゆる従軍慰安婦問題は日韓基本条約によって処理済みだ。基金もつくったが、(日本の)支払いを拒否したのは韓国側。関係悪化で困惑するのは韓国ではないか。北東アジアの安定は日本との協力なくしてはやっていけない」

神奈川新聞 2013.11.13
http://megalodon.jp/2013-1113-2044-47/news.kanaloco.jp/localnews/article/1311130009/


2013年11月3日日曜日

国連 サイドイベント

韓国挺身隊問題対策協議会と国際アムネスティが共同主催した"日本軍性的奴隷生存者のための定義"行事にはキム・ボクトンおばあさん(88)が韓国で直接参加した中で、各国の国連代表部および国連人権機構関係者、関連団体が参加して日本軍'慰安婦'問題に対する深い関心を表わした。

真実定義特別報告官は今回の行事で"日本軍'慰安婦'問題に対する日本の謝罪は充分でない"と指摘しながら'公式的な謝罪は被害者が権利の保有者ということを明らかに確認するということでなければならない'で強調した。 また、日本政府に適切な措置を取ることを促しながら'日本軍性的奴隷問題を解決しないのは不信を産むこと'と釘を刺した。 国連女性暴行特別報告官が指摘したことのままに、'被害者は公式的な謝罪と国家的責任の公式認定が欠如した経済的補償は望まない'でもう一度言及して'1995年日本政府が設立したアジア国民基金は日本軍'慰安婦'問題を解決できなかった'で強調した。 特に日本の教科書で'慰安婦'に対する技術が削除されたことに対して深い憂慮を現わした。

これに先立ち今回の行事に参加するために去る9日ジュネーブで来たキム・ボクトンおばあさんは'日本政府に要求するのはお金をくれというのではなく公式謝罪と法的賠償としこのために各国政府が努力することを訴えた。 この日行事では中国、日本軍'慰安婦'被害者の娘が映像発言を通じて日本政府の謝罪を促したし、カナダ アルファ(ALPHA)で韓国系、日系青少年が参加して日本軍'慰安婦'問題を学び参加した経験を通じて正しい歴史教育を訴えた。 この他にも日本軍'慰安婦'問題解決のための経過および市民社会が広げてきた活動に対する挺身隊対策協(ユン・ミヒャン常任代表)および国際アムネスティの報告と日本軍'慰安婦'問題解決に失敗している日本政府の状況に対する前田朗日本造形大学教授の発表が成り立った。

一方今回の行事に招請したが参加しなかった日本政府は国際アムネスティに送った立場門を通って安倍総理が去る8月15日戦没者追悼式で'(日本政府)は謙虚に歴史を向き合って私たちが習わなければならない教訓を心深く刻んで入れる'で発言したことがあるとしながら安倍総理と前任者は'慰安婦'らに深い同情(動静)と配慮を感じると言及して安倍総理と内閣が最近吐き出した日本軍'慰安婦'被害者に対する妄言とは全面的に矛盾する立場を明らかにした。 また、日本政府はこの問題に対して何度も、明確に謝罪を表明したと主張してアジア国民基金を言及するなど国際社会の認識とはかけ離れた既存の主張を繰り返した。
国際アムネスティは今回の行事を契機に、日本を含んだG8国家が2013年4月11日G8外相会談で採択した‘展示性暴行根絶に関するG8宣言’を履行するためには日本政府の日本軍'慰安婦'問題解決が先行しなければならないという内容を入れた公開書簡を日本政府に伝達したことがあって、米国、英国、ドイツをはじめとするG8国家に日本政府に対する問題解決を促すことを要求する活動を繰り広げている。

キム・ボクトンおばあさんと挺身隊対策協は14日までスイス、ジュネーブで各国政府および関係者たちに会って日本軍'慰安婦'問題解決のための支援を要請する面談活動を引き続き広げた後、フランス、パリに移動して水曜デモ、証言行事など多様な活動を続けさせる予定だ。

FB 2013.9.13
http://megalodon.jp/2013-1103-1355-26/archive.is/lMwxX


한국정신대문제대책협의회와 국제앰네스티가 공동주최한 "일본군성노예 생존자들을 위한 정의" 행사에는 김복동 할머니(88)가 한국에서 직접 참석한 가운데, 각국의 유엔 대표부 및 유엔인권기구 관계자, 관련 단체들이 참석하여 일본군'위안부' 문제에 대한 깊은 관심을 드러냈다.

진실정의 특별보고관은 이번 행사에서 "일본군'위안부' 문제에 대한 일본의 사과는 충분치 않다"고 지적하면서 '공식적인 사과는 피해자들이 권리의 보유자라는 것을 분명하게 확인하는 것이어야 한다'고 강조했다. 또한 일본정부에 적절한 조치를 취할 것을 촉구하면서 '일본군성노예 문제를 해결하지 않는 것은 불신을 낳는 일'이라고 못박았다. 유엔 여성폭력특별보고관이 지적한 바대로, '피해자들은 공식적인 사죄와 국가적 책임의 공식 인정이 결여된 경제적 보상은 원하지 않는다'고 다시 한 번 언급하며 '1995년 일본정부가 설립한 아시아국민기금은 일본군'위안부' 문제를 해결하지 못했다'고 강조했다. 특히 일본의 교과서에서 '위안부'에 대한 기술이 삭제된 데 대해 깊은 우려를 나타냈다.

이에 앞서 이번 행사에 참석하기 위해 지난 9일 제네바로 온 김복동할머니는 '일본정부에게 요구하는 것은 돈을 달라는 것이 아니라 공식 사죄와 법적 배상이라며 이를 위해 각국 정부가 힘써줄 것을 호소했다. 이날 행사에서는 중국 일본군'위안부' 피해자의 딸이 영상 발언을 통해 일본정부의 사죄를 촉구하였으며, 캐나다 알파(ALPHA)에서 한국계, 일본계 청소년들이 참석하여 일본군'위안부' 문제를 배우고 참여한 경험을 통해 올바른 역사교육을 호소했다. 이밖에도 일본군'위안부' 문제해결을 위한 경과 및 시민사회가 펼쳐 온 활동에 대한 정대협(윤미향 상임대표) 및 국제앰네스티의 보고와 일본군'위안부' 문제 해결에 실패하고 있는 일본정부의 상황에 대한 마에다 아키라 일본 조케이 대학 교수의 발표가 이루어졌다.

한편 이번 행사에 초청했으나 참석하지 않은 일본정부는 국제 앰네스티에 보낸 입장문을 통해 아베 총리가 지난 8월 15일 전몰자추도식에서 '(일본정부)는 겸손하게 역사를 마주하고 우리가 배워야 할 교훈을 마음 깊이 새겨 넣는다'고 발언한 바 있다면서 아베 총리와 전임자들은 '위안부' 들에게 깊은 동정과 배려를 느낀다고 언급해 아베 총리와 내각이 최근 쏟아낸 일본군'위안부' 피해자들에 대한 망언과는 전적으로 모순되는 입장을 밝혔다. 또한 일본정부는 이 문제에 대해 여러 번, 분명히 사과를 표명했다고 주장하며 아시아국민기금을 언급하는 등 국제사회의 인식과는 동떨어진 기존의 주장을 반복했다.
국제앰네스티는 이번 행사를 계기로, 일본을 포함한 G8 국가들이 2013년 4월 11일 G8 외무장관회담에서 채택한 ‘전시성폭력 근절에 관한 G8 선언’을 이행하기 위해서는 일본정부의 일본군'위안부' 문제해결이 선행되어야 한다는 내용을 담은 공개서한을 일본정부에 전달한 바 있으며, 미국, 영국, 독일을 비롯한 G8국가들에 일본정부에 대한 문제해결을 촉구할 것을 요구하는 활동을 펼쳐나가고 있다.

김복동할머니와 정대협은 14일까지 스위스 제네바에서 각국 정부 및 관계자들을 만나 일본군'위안부' 문제 해결을 위한 지원을 요청하는 면담활동을 계속해서 펼친 후, 프랑스 파리로 이동해 수요시위, 증언행사 등 다양한 활동을 이어나갈 예정이다.

ラジオ仏

キム・ボクトンおばあさんとパリに無事に到着した後昨日は国際アムネスティ フランス支部代表と国際連帯担当者に会いました。 これらは橋本大阪市長の発言に対して絶対有り得ないことと釘を刺して問題解決のための日本市民の責任も大きいという点を強調しました。 おばあさんがフランスを選択して訪ねてきたことに対して繰り返し監査(感謝)を伝えたりもしました。 今キム・ボクトンおばあさんはラジオフランスとインタビューをしています。

FB 2013.9.17
http://megalodon.jp/2013-1103-1348-00/archive.is/cZ1Aq

김복동할머니와 파리에 무사히 도착한 후 어제는 국제앰네스티 프랑스지부 대표와 국제연대 담당자를 만났습니다. 이들은 하시모토 오사카 시장의 발언에 대해 절대 있을 수 없는 일이라고 못박으며 문제해결을 위한 일본시민들의 책임도 크다는 점을 강조했습니다. 할머니가 프랑스를 선택해 찾아와 준 데 대해 거듭 감사를 전하기도 했습니다. 지금 김복동할머니는 라디오프랑스와 인터뷰를 하고 있습니다.

仏議員と

今日会った女性上院議員は力があふれる方でした。 女性権担当国務長官を歴任したりもしたし戦争で被害を受ける女性たち問題にすでに大いなる関心と心を注いでいました。 ドイツの場合を例にあげて清算することがかえってすっきりしているという言葉も忘れなかったです。 今日の出会いを報告書で整理してすべての関係者たちとも共有することを約束しました。 出会いが終わった後ペブクに上げるとして写真がチャルラオは所を探して自らおばあさんをパシャッパシャッとる姿がおもしろいですね^^

FB 2013.9
http://megalodon.jp/2013-1103-1344-38/archive.is/DeN8u

오늘 만난 여성 상원의원은 힘이 넘치는 분이었습니다. 여성권 담당 국무장관을 역임하기도했고 전쟁으로 피해입는 여성들 문제에 이미 많은 관심과 마음을 쏟고 있었습니다. 독일의 경우를 예로 들며 청산하는 것이 오히려 깔끔하다는 말도 잊지않았습니다. 오늘의 만남을 보고서로 정리해 모든 관계자들과도 공유할 것을 약속했습니다. 만남이 끝난 후 페북에 올리겠다며 사진이 잘나오는 곳을 찾아 손수 할머니를 찰칵찰칵 찍는 모습이 재밌네요^^

仏 国家人権委員会


今日はフランス国家人権委員会を訪問しました。 ILO協約担当者として日本軍'慰安婦'問題に対して日本政府の謝罪が必ず必要だという話を伝えておばあさんの訪問を感謝しました。 ILOで日本政府のロビーのためにこの問題が扱われない状況を惜しんで必ず日本政府が勧告に従って問題解決をしなければならないという意見を惜しまなかったです。 ところで話を交わして見たら日本政府が国際社会にしている偽りなった主張を情報で受けていたのためにすでに日本政府から賠償がある程度成り立ったと理解していました。 これに対し国民基金の問題点、日本政府の二重プレーなどに対して説明し始めました。 たとえ時間のためにとても十分な情報をみな伝達できなかったが説明を聞いた担当者はびっくりして必ずおばあさんのお言葉と今日の出会いに対して次にILOミーティングの時報告すると約束しました。 日本政府の嘘と歪曲、経済力を前に出した黒いロビーを再び実感します。

2013.9
FC http://megalodon.jp/2013-1103-1338-11/archive.is/ZtbUv

오늘은 프랑스국가인권위원회를 방문했습니다. ILO협약 담당자로서 일본군'위안부'문제에 대해 일본정부의 사죄가 반드시 필요하다는 이야기를 전하며 할머니의 방문을 감사해했습니다. ILO에서 일본정부의 로비 때문에 이 문제가 다루어지지 않는 상황을 안타까워하며 반드시 일본정부가 권고에 따르고 문제해결을 해야한다는 의견을 아끼지 않았습니다. 그런데 얘기를 나누다보니 일본정부가 국제사회에 하고있는 거짓된 주장을 정보로 받고 있었기때문에 이미 일본정부로부터 배상이 어느정도 이루어진 것으로 알고있었습니다. 이에 국민기금의 문제점, 일본정부의 이중플레이 등에 대해 설명하기 시작했습니다. 비록 시간때문에 아주 충분한 정보를 다 전달하진 못했지만 설명을 들은 담당자들은 깜짝 놀라며 반드시 할머니의 말씀과 오늘의 만남에 대해 다음 ILO미팅 때 보고하겠다고 약속했습니다. 일본정부의 거짓말과 왜곡, 경제력을 내세운 검은 로비를 다시 실감합니다.

仏外務省と



9月20日金曜日、フランス外交部を面談して出てくるところに今回の国連とフランスキャンペーンを共に主催.連帯しているアムネスティ活動家とともに記念撮影をしました。 後に見える建物が外交部建物です。 アムネスティ活動家はフランスアムネスティ国際連帯担当責任者です。
外交部国連との児童人権責任者とアジア人権責任者に会ったが、お二人様全部女性でした。 本来はアジア地域とも共にくることにしたが、他の急な日程のために出てくることができなかったといいます。
互いに儀礼的な挨拶を交わして、"今日は聞くためにきた"と私たちの話を聞きたがりました。 先に、キム・ボクトンおばあさんが"私は88才キム・ボクトンといいます。"として話し始められたし、日帝によって国を奪われた話から始めて十四才少女の年齢に日本軍の性的奴隷になって二十二才に家に戻ることまでの痛恨の話を再び繰り返して話しました。 "わが国の力だけでもならなくて世界の色々な国が力を合わせて日本政府を圧迫して私が死ぬ前にこのすべての問題がみな解決されて日本政府が法的に謝罪して賠償するように、それで一日でも気持ちゆっくり生きて死ねるように協力するようにお願いしたいです。 それが願いです。"フランス外交部担当者は日本政府がすでにロビーある文書を通じて日本政府が被害者に謝罪もして、賠償もしたことで理解していました。 アジア女性基金を通じて金銭的賠償もしたと聞いて分かっていました。 キム・ボクトンおばあさんは"私は戦争の時慰安所でもお金とは一銭も見物して見たことがなくて、解放後帰ってきても日本政府にお金とは受けてみたことがありません。"と話して、ユン・ミヒャン代表は日本軍'慰安婦'問題解決のための国連とアジア被害女性らと国連、ILo世界各国議会決議採択過程などを説明して、日本政府と社会で進行している被害者に対する第2,第3の加害行為を是正して、被害者の人権回復のために国際社会の圧力が必要で、これのためにフランス政府の役割を要求しました。
この問題がまだ解決されないでいることには戦争が終わった時まともに戦争犯罪者を処罰しなかった国際社会にも責任があるとのことも言及しました。 合わせて、2008年国連人権理事会でフランス政府が日本政府に向かって日本軍'慰安婦'問題解決を要求する発言をしたが、2012年にはしないので2008年に発表した政府の立場は変わることがないのか尋ねました。
外交部担当者は2012年には弁解のようだが時間がなくて発言をすることができなかったが、私たちの政府の立場は2008年と立場は同じだと答えて、'慰安婦'問題は今でも続いている展示性暴行問題なのでフランス政府も展示性暴行問題解決のために努力していて、今後さらに積極的に変わることだと答えました。
一時間の間の出会いを通じてその間加害国の立場だけ聞いて知っていたフランス政府に被害者とこれを支援する女性たちの声をきちんと知らせることができました。 今後フランス政府が国連で、日本との外交関係で積極的な活動をできるようにずっと努力しなければならないようです。
外交部面談を終えて出てきた道に私たちのパリキャンペーンを一緒にしているフランスアムネスティ国際担当責任者とともに意味と評価に対して話を交わして、このように写真ワンカットで記憶で残しました。

2013.9 FB

http://megalodon.jp/2013-1103-1331-44/archive.is/uW2Y8

9월 20일 금요일, 프랑스 외교부를 면담하고 나오는 길에 이번 유엔과 프랑스캠페인을 함께 주최.연대하고 있는 엠네스티 활동가와 함께 기념촬영을 했습니다. 뒤에 보이는 건물이 외교부 건물입니다. 엠네스티 활동가는 프랑스엠네스티 국제연대담당책임자입니다.
외교부 유엔과의 아동인권 책임자와 아시아인권책임자를 만났는데, 두 분 모두 여성이었습니다. 원래는 아시아지역과도 함께 오기로 했는데, 다른 급한 일정때문에 나오지 못했다고 합니다.
서로 의례적인 인사를 나누고, "오늘은 듣기 위해서 왔다"고 우리의 이야기를 듣고싶어 했습니다. 먼저, 김복동 할머니께서 "나는 88세 김복동이라고 합니다." 라며 말문을 여셨고, 일제에 의해 나라를 뺏긴 이야기부터 시작하셔서 열 네 살 소녀의 나이에 일본군의 성노예가 되어 스물 두 살에 집으로 돌아오기 까지의 뼈아픈 이야기를 다시 반복해서 이야기하였습니다. "우리 나라 힘 만으로도 되지가 않아서 세계 여러 나라가 힘을 합해 일본정부를 압박해서 내가 죽기 전에 이 모든 문제가 다 해결되어서 일본정부가 법적으로 사죄하고 배상하도록, 그래서 하루라도 맘 편히 살다가 죽을 수 있도록 협력해 주시기를 부탁드리고 싶습니다. 그것이 소원입니다."
프랑스 외교부 담당자들은 일본정부가 이미 로비한 문서를 통해 일본정부가 피해자들에게 사죄도 하고, 배상도 한 것으로 이해하고 있었습니다. 아시아여성기금을 통해 금전적 배상도 했다고 들어 알고 있었습니다. 김복동 할머니는 "나는 전쟁때 위안소에서도 돈이라고는 한 푼도 구경해 본 적이 없으며, 해방 후 돌아오고 나서도 일본정부에게 돈이라고는 받아본 일이 없습니다."고 말하고, 윤미향 대표는 일본군'위안부' 문제 해결을 위한 유엔과 아시아피해여성들과 유엔, ILo 세계각국의회 결의 채택 과정 등을 설명하고, 일본정부와 사회에서 진행되고 있는 피해자에 대한 제2, 제3의 가해행위를 시정하고, 피해자들의 인권회복을 위해 국제사회의 압력이 필요하며, 이를 위한 프랑스 정부의 역할을 요구했습니다.
이 문제가 아직도 해결되지 않고 있는 것에는 전쟁이 끝났을때 제대로 전쟁범죄자를 처벌하지 않았던 국제사회에도 책임이 있다는 것도 언급했습니다. 아울러, 2008년 유엔인권이사회에서 프랑스 정부가 일본정부를 향해 일본군'위안부' 문제 해결을 요구하는 발언을 했는데, 2012년에는 하지 않아서 2008년에 발표한 정부입장은 변함이 없는지 물었습니다.
외교부 담당자들은 2012년에는 변명같지만 시간이 없어서 발언을 하지 못했지만, 우리 정부의 입장은 2008년과 입장은 같다고 답변하고, '위안부' 문제는 지금도 계속되고 있는 전시 성폭력 문제이기 때문에 프랑스 정부도 전시성폭력 문제 해결을 위해 노력하고 있으며, 앞으로 더 적극적으로 변할 것이라고 답변했습니다.
한 시간 동안의 만남을 통해 그동안 가해국 입장만 들어 알고 있던 프랑스 정부에게 피해자와 이를 지원하는 여성들의 소리를 제대로 알릴 수 있었습니다. 앞으로 프랑스 정부가 유엔에서, 일본과의 외교관계에서 적극적인 활동을 할 수 있도록 계속 노력해야 할 것 같습니다.
외교부 면담을 마치고 나오던 길에 우리의 파리캠페인을 함께 해주고 있는 프랑스엠네스티 국제담당책임자와 함께 의미와 평가에 대해 이야기나누고, 이렇게 사진 한 컷으로 기억으로 남겼습니다.

2013年10月23日水曜日

木村・和田

慰安婦問題で、日本が国際的な理解を得るためには、何が必要なのか?――TBSラジオ「荻上チキ・session-22」 和田春樹×木村幹

■慰安婦問題に向き合う

荻上 橋下市長の発言や、アメリカ・カリフォリニア市で在米韓国人が慰安婦像を設置するなど、慰安婦に関する話題が相次いでいます。今日は、これから慰安婦問題についてどう向き合えばいいのかについて議論していきたいと思います。

まず、アメリカ国内で慰安婦像を設置されたことについて、和田さんはどうお考えですか。

和田 私は、慰安婦の像をつくるのであれば、日本としては賛成するのがいいと思います。90年に韓国側から6項目の要求が出た時に慰安婦像の設置は入っていましたし、アジア女性基金の中でも検討をしたことがあります。政府が責任を感じて、国民としても償いをすることをしてきたわけですから、苦しんだ方たちに対してお詫びの気持ちを込めた慰霊碑を建てるということはよろしいと思います。

しかし、現在の状況を見ていると、政治的な動きに感じられますね。政治的な動きが韓国人によってなされて、それに対して日本の外交官や在米日本人が反対するということになっており、これが対立を広げることになっていますよね。その部分に関しては、私は良いことだとは思いません。事実関係が違うのであれば、在米の大使館に事実関係を正確にしてくれと提言し、静かに対応すべきではないかと思います。

荻上 木村さんはいかがでしょうか。

木村 そうですね。一番感じるのは、もはや慰安婦問題が日韓だけの問題ではないということですね。日韓の間では教科書問題や竹島問題など様々な問題があるわけですが、たとえば、竹島の問題に関しては、日韓両国のようなそれなりに国際社会で影響力がある国が、どうしてあんな小さな島で争うのか、とアメリカやヨーロッパでは冷ややかに見られたりします。

意外に思われるかもしれませんが、こういった問題に比べて、慰安婦問題に関する海外の人達の注目はずっと大きい。和田先生もおっしゃられましたが、そこでは日本や韓国の国や社会のイメージが問われている。ある意味、観客のいる紛争です。その点については、慰安婦像についての話はまさにその典型だと思います。

だからこそ、銅像設置それ自体よりも、この銅像設置に至るまでの話がどのように語られているか、また、銅像を設置しようとする動きに対する日本側のリアクションが現地でどのように理解されているか、といったことも考えなければなりません。つまり、「第三者の目」を意識しながらこの問題を考えていく必要がある、ということになります。国際紛争を考える上ではいつもこの「観客」、あるいは「第三者の目」は重要なのですが、その点を我々に改めて考えさせてくれる良い機会を与えてくれる問題だと思います。

荻上 「自分たちが解釈した『事実』を主張し、国際世論が理解してくれれば、今の議論は変わるのでは」というのが、慰安婦をめぐる日本の一部のムードとしてあるように感じられますが、それでは通用しないということでしょうか。

木村 慰安婦像を設置しようとしている在米韓国人の運動が誰に何を訴えようとしているのか、そしてそれを第三者がどのように受け止めているのか、それに対して、日本側が出しているカードや情報が適切に機能しているのか、を考えなければならない、という話です。言いたいことを言いたいように言っているだけでは、必ずしもこちらの主張が相手には伝わらない、ということを真剣に考える必要があると思います。

■アジア女性基金とは

荻上 今日はぜひ「女性のためのアジア平和国民基金(*1)」(以下、「アジア女性基金」)のお話を伺いたいと考えています。和田さんも関わられていますが、アジア女性基金がどのようなもので、どのような経緯で設立されたのかについて、簡単にお教えください。

(*1)「慰安婦問題とアジア女性基金/デジタル記念館」http//www.awf.or.jp/
外務省HP「村山内閣総理大臣による『女性のためのアジア平和国民基金』発足のご挨拶」http//www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/m_hosoku.html

和田 1993年に、河野談話(*2)が出ています。宮澤内閣が調査をし、日本の軍の関与を認めて、お詫びをするということになりましたが、具体的にどうするのか一切決められず、細川内閣でも出来ずにいました。それが村山内閣に引き継がれまして、この内閣が戦後50年を控えて、残された問題を検討しましょうということで、中心的な問題として慰安婦問題に取り組み、解決策を考えた結果、財団法人という形でアジア女性基金を作り、政府もお金を出し、国民からの募金も集めて、謝罪と償いをするということになったんです。

(*2)「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(外務省) http//www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

その国民への呼びかけ人として、私も政府から話があったので、アジア女性基金に関わることになりました。

荻上 もともと、法的には解決済みという見解を日本はしていましたが、民間と基金をつくることによって別の解決策を探ろうとつくられたのがこの基金ということですよね。

和田 そうですね。

荻上 ですが、和田さん自身、100%賛成というわけではなく、疑問もあったようですね。

和田 我々としては、国家が謝罪をして国家が補償をすべきだという考えでした。ところが、政府としてはそれができないという結論が出て、財団法人という形で基金を作ることになりました。

私は意見を聞かれた時に、「基金をつくるのは良いが、法律によってつくってほしい。政府のお金と国民のお金を一緒に入れて、基金として償い事業をして欲しい」と提言しましたが、受け入れられませんでした。官房長官の五十嵐(広三)さんも努力しましたが、結局通らずに、償い金というのは国民からの募金だけという形になったんです。そこに、反発し、「受け取れない」とおっしゃる元慰安婦の方が出てきました。

しかし、当時は、自民党と社会党が一緒になってはじめて新しい政府ができ、河野談話に基づいて補償をしようという意欲が出ている時だったので、やれることはやらなければしょうがないと感じていました。それがアジア女性基金に関わるようになったきっかけです。

荻上 100点ではないけれど、関わりながら変えていければと思ったと。アジア女性基金の活動は、実績も残していますが、成果を上げられなかった面もあると思います。どのような成果があったのか、改めて教えて頂けますか。

和田 アジア女性基金では、首相の署名したお詫びの手紙を1人1人に届け、1人当たり200万円の償い金も届けました。加えて、医療福祉支援を政府のお金で出し、韓国台湾には300万円、フィリピンには120万円、オランダには300万円を1人当たりにお渡ししました。これらが、アジア助成金の「償い事業」と言われるものです。

償いという言葉を英語では“atonement”としました。“atonement”とは「贖罪」という意味です。“The atonement”といえばキリストが十字架にかかった行為を指す言葉で、非常に強い意味を持つんです。

ですから、フィリピンやオランダでは不満があったんだけど、日本が誠意を見せていると感じとったので、ほとんどがこの事業を受け入れたわけですよ。

荻上 「こんなに強力な言葉を使って」というインパクトがあったんですね。

和田 ところが、韓国は英語ではありませんから、「償い」は「補償(ボサン)」と訳される他ないので、「日本は、補償はできないと言っていたくせに、何事だ」となってしまった面がありますね。

荻上 国によってニュアンスが違うということですよね。

和田 結局最初のかけ違いがあったので、フィリピンやオランダでは多くの人が受け取ったのですが、韓国と台湾では半分以上の人が受け取っていない。その意味で言うと、韓国では事業は終わっていないわけです。

荻上 受け取るなという内部の声があったんでしょうか。

和田 受け取ってはいけないという声は、韓国国内の運動グループからもあったし、国内世論からもありました。最初に受け取った7人は、実際に国内で酷く批判され苦しんだんです。

荻上 お詫びということで、お金を出したということですが、何に対するお詫びで、支給対象はどういった基準で選んだのでしょうか。

和田 韓国と台湾の場合には、その国の政府の方で慰安婦であった人々を登録しているのです。政府が支援をしているのです。それで、基金としては、自国政府に登録をして、支援を受けてるという書類を出してもらえば、申請を受けつけるということにしました。そういう人に無条件で支給することになっていました。

フィリピンの場合にはアジア女性基金に直接申請を出す。オランダの場合はアジア女性基金の依頼を受けた委員会が募集をして、申請を受け付けました。

荻上 国によって方法が変わっていたということですね。

和田 人数的にはフィリピンと韓国と台湾で284名の方に支給し、オランダでは79名の方に支給しています。

■正解がわからない

荻上 数百人規模で手紙と償い金を渡すことが続けられたということですね。木村さんはアジア女性基金の活動について、どのような評価をお持ちですか。

木村 アジア女性基金の背景には、日本政府側はこの問題は日韓基本条約により解決済みだから法的賠償は難しいと主張し、これに対して韓国側がこの問題を日韓基本条約の枠外に置いて法的賠償に近いものを要求する、という構造的対立がありました。こういう状態の中で、本来であれば「限りなく法的賠償に近いけど法的賠償ではない」アジア女性基金は、両者の間のあり得べき落とし所に近い案でした。

当時の日本政府もこの問題の解決に対して積極的に努力しましたし、紆余曲折があったとは言え、実際、基金のアイデアもよくできたものだったと思います。ですが、実際には、韓国の世論や運動団体の反発に直面して、この基金は期待された様な役割を果たすことができませんでした。

今日の日本では、慰安婦問題をはじめとする様々な歴史認識問題について「日本は解決に向けて一生懸命努力しているのに、韓国側はその努力を全く理解しようとしない」という不満があります。アジア女性基金を巡る問題は、言わば、そのような日韓の歴史認識問題のもう一つの構造を典型的に表している様に思います。そして、日韓の歴史認識問題がこのような展開を見せるのには、また、それなりの理由があります。

この点については、当時、問題の解決のためにご尽力された和田先生の前で申し上げにくいところもあるのですが、あえて申し上げると、次のようになります。まず、河野談話にしてもアジア女性基金にしても、歴史認識問題に関する日本側の何かしらの「解決策」が出される過程では、国内の歴史認識問題に関わる論争が勃発し、様々な発言がなされます。

これは日本が民主主義国である以上、やむを得ないことですが、こういった発言の一部は、韓国側では「妄言」と看做されることになります。そしてこれらの「妄言」に対して韓国のマスコミや政治家が順番にリアクションを起こすと、結果、日韓関係は悪化する。こうして肝心の解決案が出て来る頃には、すでに両国の関係は大きく損なわれ、解決策について冷静に議論できる状況ではなくなってしまう。日韓間では、これが幾度も繰り返されて来たわけです。

だからこそ、努力してそれなりに良いものを作っても、河野談話やアジア女性基金等を発表した段階では、韓国の世論や市民団体の支援が全く得られなくなってしまう。そういう同じような展開をたどっているということです。

実際今でこそ、河野談話もアジア女性基金もそれなりに評価されているわけですが、当時の日韓両国の新聞を読めばその評価は酷いものです。善意で何かしらを行うことは重要ですが、その努力を形に結びつけるためには、「手続き」も重要だ、ということですね。

荻上 先ほどの和田さんは言葉のニュアンスの話やコミュニケーションの話をされていたんですが、今の「手続き」というのはどのような意味なのでしょうか。

木村 「話の持って行き方」という言い方でも良いかもしれません。細かい話になりますが、慰安婦問題は92年から本格的に活性化します。そしてここで韓国側が問題提起をして、日本側に解決案の作成を要求する、という形が生まれて今に至ります。結果、日本側だけで解決案をつくって持っていき、それに韓国側がノーという、ということが繰り返されている、というのがこれまでの関係です。

これは、よく考えたらおかしいですよね。本当であれば日韓両国で協力して問題の解決案をつくるべき問題なのに、日本側が一方的につくっている形になっている。そしてだからこそ、その解決案については韓国側はフリーハンドを持つことになってしまう。

もちろん、日本側が作る回答はなかなか韓国政府や世論に対する満額回答、という形にはなりません。そうすると、韓国側の中には、そうした「不満足な日本側の回答」を自らの政治的、あるいは運動面での目的に利用しようする人達も出て来ますし、政権自体も求心力が低下すると、強硬な世論に流されがちになります。本来であれば、韓国側にも解決案作成過程において積極的に関与させるようなシステムを作らなければならないのですが、その点が欠けてしまっている。だからいたずらに日本側だけが右往左往することになる。

荻上 日本は100点の答えがわからない中、暗中模索しながら、韓国に提案を投げ続けていると。

木村 そうです。うちにも子供がいるのですが、時々何かしらの問題に躓いて、親に「どうしたら良いかは、あんたが考えなさい」なんて怒られたりする。この時、子供が親の期待している答えがわかっていればいいのですが、そうでない時には、こういう怒られ方をすると子供が困ってしまう。子供の方は答えがわからないまま、何を言っても親に怒られそうに思う。この状態を放って置くと、そのうち子供は萎縮して、親の前で何も言えなくなってしまいます。あ、因みにうちの家庭の話ではないですよ(笑)。

いずれにせよ、一旦こういう関係に陥ったら、やっぱり親の方、――もちろん、日韓関係において韓国政府が親で日本政府が子供、というわけではありませんが―つまり、問題を出している側が、両者が納得できる解答に至るまでの過程に積極的に関与していかないといけないですよね。でないと、コミュニケーション自体が成立しなくなってしまう。

■宿題を一方的に引き受けた

荻上 それでは、質問メールを読みたいと思います。

南部 「韓国は慰安婦強制連行を日本に謝罪させた後、日本とどうしたいんでしょうか」

荻上 今の話でいくと、韓国側の欲望が見えにくいということですよね。そうすると、韓国がもっと発言した方がいいということなのか、日本側のテーブルのつくり方が失敗したのか、木村さんの力点の置き方としてはどうでしょうか。

木村 最初の段階で、日本が韓国側から与えられた「宿題」を一方的に引き受けてしまったことに問題があったと思います。

少し説明すると、1992年の1月、慰安所の軍関与を示す資料が発見されたという朝日新聞の報道が出て来ます。この直後、ちょうど予定されていたソウルでの日韓首脳会談で、時の宮澤首相が韓国の盧泰愚大統領に謝罪をします。謝罪をすることの是非はさておいたとしても、問題はここで日本政府がこの問題の調査と解決方法の提示を自分たちが責任をもってやることを約束してしまったことです。ぼくは、この段階で最初の間違いがあったと思うんです。

荻上 その後、河野談話を出しますが、そのタイミングについては早かったとお思いですか。

木村 早かったというか、この頃の日本では、メディアも政治家たちも慰安婦の強制連行に関する資料は早晩出てくるだろう、という前提で行動しているんですね。だから日本政府もこの予測に基づいて自分たちの行動の計画を作り上げて行きます。でも実際には、その資料が出てこない。ここで日本政府は自分たちが決めた決まりで自縄自縛になってしまうわけです。で、資料が出て来ないなら、証言を取りに行くしかない、というような展開に93年頃にはなってしまう。いつの間にか「結論先にありき」になってしまったことは否定できないと思います。

そしてこのような状況は、時の与党だった、自民党の政治家の中にも禍根を残すわけです。つまり、どうしてこんな無理をする必要があるんだ、という不満が残る。そうすると、自民党の中では、これは宮澤政権の中核を担った宮澤派の失敗だ、という理解が生まれる。だって、考えてみれば、河野談話に携わったのは、宮澤さん、加藤さん、河野さん、皆、宮澤派の重鎮ですからね。だからこそ、今になってさえ、慰安婦問題については宮澤派系の政治家と、それ以外の自民党の政治家で河野談話の理解が違う、何ていうことが生まれてくる。最初の段階でボタンをかけ違えてしまい、ここまで来ているという感じです。一旦掛け違えたボタンを全部はずして、かけ直したほうが早いかも知れませんね。

和田 宮澤内閣は2度に渡って調査をしたわけです。私どもが政府が調査した結果を本にして出版しましたが、5巻の資料集です。それが慰安婦問題の基本的な資料です。

努力は積み重ねてきたと自負しています。連れて来る時の強制連行ということではなく、軍が関与して慰安所を作って、業者に頼んで人を集めて、軍が輸送にも関わっているし、慰安婦を何人送れという命令も出てきています。私としては、政府は相当に努力したと思うんです。

しかし、木村さんがおっしゃるように、韓国側とどう話合って意見を詰めていくのかという努力は足らなかったと思いますね。

荻上 そこは、不信感が残っているポイントなんでしょうか。

木村 不信感が残っているというより、韓国側に「日本側が努力すべき問題だ」という考え方を作ってしまいましたよね。

荻上 資料調査にしても、「あるはずの資料を出していないのでは」という疑念が生まれていますが、そもそも一緒になって調査していないので、ブラックボックス化してしまう部分があるんでしょうね。

木村 日韓共同でやるのかやらないのかでは違いますよね。案を日本がつくり、韓国側にお伺いをたてる形になってしまっているのはどこかおかしいと思います。

和田 まぁ、はじめてだったし、韓国の運動団体は国連機関に駆け込んで訴えるということばかりやっているわけだから、日本側としては韓国側と相談するという考えもないわけですよね。結局、明らかに失敗はあったでしょうね。

■「河野談話」を考える

荻上 ボタンの掛け違いが現在まで起こっているわけですが、この歴史認識問題自体が既に「歴史」になってしまっているので、過去の発言を全部水に流すことはできないわけですよね。河野談話が100点の回答ではないけれども、それはそれとして維持しなければいけないわけです。木村さんは河野談話についてはどうお考えですか。

木村 皮肉めいた言い方になりますが、ぼくは、非常によくできた「霞が関文学の名作」の類だと思っています。だって、何とでも解釈できる文章ですし、少なくとも間違ってはいませんよね。慰安婦の強制連行についても、「もあった」という書き方になっています。だって、慰安婦の連行については、中国大陸や東南アジアで兵士も関わった強制連行に近いことがあったことは事実ですからね。

でも、「全部が強制連行だった」とも決して言っていない。だからこの談話が言っていることは間違ってはいないんですよ。繰り返しになりますが、そういう意味でこの文章は良くできていると思います。だからこそ逆に「河野談話の見直し」と言う話が出てくると、どこをどう見直すのか、というのが問われますし、日本政府は存在したことが明らかな東南アジア等の慰安婦の強制連行についても、否定するのではないか、という疑心暗鬼に陥る人も出て来ますし、またその疑心暗鬼を利用する人さえ出て来ることになる。この問題については、もっと具体的に考えて行かないとダメだと思います。

和田 すでに河野談話に基づいてアジア女性基金ができていますし、首相のお詫びの手紙も書かれています。実際に受け取った人もいます。これを見直すとするならば、よっぽど致命的な問題があった場合しかあり得ないでしょう。

しかし、今のところは、「更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。」という一語が問題で、しかもダイレクトに強制連行があったとは言っていませんので、見直す必要があるのか疑問です。私も木村さんがおっしゃるとおり、河野談話は非常によくできた文章だと思います。

木村 河野談話は、文章そのものよりも、解釈が混乱しているという部分もあるんです。この談話が出された後、河野さんがメディアでやり取りしたりしているのですが、そこでも少しブレがあったりする。だからこそ、河野談話の解釈の見直し、というか明確化はできると思うのですが、その結果で何かが変わるかというと、結果はこれまでと大差の無いものになる可能性が高い。そうなれば何のための見直しなのかわからなくなりますから、外部からみると何をやっているのかわからない。結局、「日本のやっていることはよくわからない」という評価に繋がりかねない、と思います。

和田 2007年のアメリカ下院の決議では河野談話もアジア女性基金も非常に高く評価しています。「河野談話を見直すというのは危険だ、アジア女性基金が終わってしまうから問題だ。だからこそ安倍内閣としてははっきりとした政府の声明を出してほしい」大まかに言うと、このような内容です。

アジア女性基金には資料委員会という歴史家の集団があって、政府が収集した資料も検討しましたが、河野談話に問題がある点は見つかりませんでした。だから、私は基本的に河野談話は基礎にしてやっていいものだと思いますので、修正する必要はないと考えています。

■人権問題としての慰安婦

荻上 日本では「強制連行があったのかどうか」という議論が重要視されている面があります。しかし、海外ではどのような論点が問題になっているのでしょうか。

木村 問題になっているのは、全体としての慰安婦をめぐる人権状況だと認識しています。その問題点の一つに強制連行がある、という理解です。

もともと、慰安婦問題において強制連行がクローズアップされていったのには理由があります。日本では1992年の朝日新聞の報道が口火を切ってこの問題が本格化した、という理解が多いのだと思いますが、この問題を理解するためには、同時にそれ以前の運動との関係を考えることも重要です。具体的には、この直前に議論されていた問題が何だったか、ということですね。答えを先に言ってしまえば、それは総力戦期の労働者の動員だった、ということになります。いわゆる「強制連行」問題ですね。

実は本格化する前の慰安婦問題も、「強制連行」問題の一部と言う理解をされていました。だからこそ、当初の慰安婦問題の展開も、慰安婦の「強制連行」部分に焦点が当てられて行くことになりました。でもその後、慰安婦問題だけでなく、労働者の動員について、これを巡って争われた裁判のほとんどで原告が敗訴することになりました。そして、この過程で運動側は「強制連行」一本やりではこの問題の突破口は開けない、ということを学習することになります。

当然、運動団体はここで戦略を変えていくことになります。忘れがちですが、河野談話はもう20年も前の話ですから、この過程で運動団体が試行錯誤しながら新たな突破口を模索するのは当たり前なのです。そして運動団体はここで、慰安婦の「強制連行」だけではなく、慰安所の「人権状況」にも目を向ける、ということになります。

たとえば、ここでの論点の一つには、慰安婦には廃業の自由があったのか、なんていうことも入ってきます。もし、廃業の自由がない、契約の解除ができない、ということになれば、とても正常な雇用関係ではありませんから、慰安婦は「性奴隷」だった、という言い方も可能になるかもしれない。またよく出てくる借金の形に女性が売りに出される、なんというのも、文字通り「奴隷状態」じゃないか、ということにもなる。ともかく大事なのは今日の慰安婦問題には、色んな論点があるということです。そして、「強制連行」を巡る話は、依然として重要な話の一つではあるけど、それだけが重要な話だ、というわけではない。

たとえば、今年の7月9日に、研究目的で挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)という慰安婦支援団体が作っている博物館を観に行ってきました。韓国最大の慰安婦支援団体です。そこには言わばこの団体の「公式見解」が展示されているのですが、実はこの博物館の展示では「日本の軍人に連れて行かれた」という話は殆ど出て来なかったりする。元慰安婦の生涯を追った再現アニメーションなどもあるんですが、そこでのストーリーもどっちかといえば「業者に騙されて連れて行かれた」という描き方になっている。もちろん、慰安所でお金のやり取りがあったこともちゃんと触れられています。

つまり、この博物館でもやはり、慰安婦の動員過程における「強制性」よりも、全体として「慰安婦をめぐる状況は極めて非人道的だった」というのが基本メッセージになっているわけです。単純化して言えば、業者に騙されて連れて行かれようが、金銭のやり取りがあろうが、自らの意図に反して慰安婦にならざるを得なかった人々の状況は、人権的状況として間違っているし、また、そのような状況を生み出した日本の植民地支配もまた非人道的だ、というだけで十分なわけだ、という考えですね。

そして今日の慰安婦を巡る欧米の議論も、そういった韓国の運動団体のメッセージを奇麗になぞる形になっています。だからこそ、たとえばアメリカの人たちに対して、「日本は国家として慰安婦の強制連行はしていません」と主張しても、「それが何だというのだ」と言うリアクションが戻ってくることにもなる。もしも、全体として慰安婦が人権的に酷い状態に置かれていたのであれば、その中でのごく一部でしかない動員過程の「強制性」に拘っても仕方がないじゃないか、というわけです。

いずれにせよもしも、日本側が慰安婦を巡る議論に勝利したいのなら、同じ所だけ守っていても仕方がない。サッカーやアメフトと同じで、他の所を突破されればおしまいですからね。そして慰安婦問題を巡る日本の状態は、強制連行のところだけを守って、他の所を見ていない。これでは勝てる勝負も勝てなくなってしまうのは当たり前です。

そもそも、軍隊が女性を連れて歩くということ自体、すでに美しい行為ではないですよね。慰安婦を巡る問題はつきつめればそこに来る問題ですし、国際社会はそこにこそ注目しているということになります。

荻上 和田さんは今の議論についてどう思われますか。

和田 吉田清治という人が自分の経験として、「村に入り人狩りのように連れてきて申し訳なかった」と謝罪したことがあったんですよ。この発言が韓国には強い影響を最初与えたことは確かです。最初の6項目の要求が出た時に引用されたのは吉田さんの本(『私の戦争犯罪』・三一書房)でした。

ところが、調べてみたら、そんな事実はないことがわかって、吉田さんの言っていることは誤りだということになってしまいました。それが否定されたので、慰安婦は売春婦だったと主張する人が出てきたんですよ。

しかし、戦時中にそういった場所に連れていかれた女性たちにとっては、強制されたということが大事なんです。アジア女性基金のパンフレットでは、その冒頭で慰安婦とはなにかについて定義をしています。そこでは、「いわゆる『従軍慰安婦』とは、かつての戦争の時代に日本軍の慰安所等に集められ、将兵にたいする性的な行為を強いられた女性達のことです。」と書いているんです。

ですから、「強いられた」という感じが非常に強いわけですよ。全ての人が強制された存在だとして申し立てている。そう思わない人は申請もしないし、賠償を求めてこないんですね。このことに対して、軍による強制連行を否定しても答えになってないわけです。

荻上 軍による強制連行がなければ、「強いられた」ということを否定できるかのような議論になっているが、少なくともそうじゃないと。

現代の人身売買に対する国際的な定義ってありますよね。たとえば、アメリカは日本のことを今でも人身売買大国であると批判していますが、その時の「人身売買」の定義は「借金による束縛・暴力や強制送還の脅し、恐喝、そして精神的な威圧を用いて移動を厳しく制限する」強制売春の場合は、「借金を負わせて生活費や医療費、必要経費の支払いを要求したり債務の奴隷とする」とあります(*3)。この価値観からすると、慰安婦は「人身売買」に当てはまるわけです。

(*3)米国大使館東京・日本HP「2013年人身売買報告書(抜粋・日本に関する報告)」http//japanese.japan.usembassy.gov/j/p/tpj-20130719b.html

アメリカだけではなく、国連の「人身取引防止議定書」では、「人身取引とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得し、輸送し、引渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。(*4)」としています。この解釈では、人身取引の仕組みを積極的に活用しただけではなく、輸送したり収受したりと人身取引に加担していることになります。

(*4)「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人(特に女性及び児童)の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書(略称 国際組織犯罪防止条約人身取引議定書)」(外務省) http//www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/treaty162_1a.pdf

なお、日本の人身取引の定義では、「『人身取引』とは、犯罪組織などによって、暴力や脅迫、誘拐、詐欺などの手段で場所や国を移動させられるなどして、売春や風俗店勤務、強制的な労働などを強要される犯罪であり、重大な人権侵害です。(*5)」と、してあります。この定義に照らしあわせてみても、慰安婦制度が「人身取引」であることは当てはまっていますね。

(*5)「売春や強制的な労働などを強要される「人身取引」被害者に助けを求められたら最寄りの警察などへ」(政府広報オンライン)http//www.gov-online.go.jp/useful/article/201111/3.html

木村 今の基準からは人身売買だったと言える、という話ですよね。これに反論する人達というのは、「昔の基準は違ったじゃないかと」言うことになるわけですし、これはこれでたとえば法律論としてはよくわかります。でも大事なのは、今日の状況では、慰安婦を巡る問題は現代の問題に絡めて議論されている、ということです。だから、橋下大阪市長の発言のように、この問題を現代の女性を巡る問題としてリンクさせてしまうと大変なことになる。だって、そのメッセージは日本社会は昔も今も同じだ、ということになってしまいますからね。

だからこそ、政府の法的責任の問題と、慰安婦問題が性奴隷なのか否か、言い換えるなら、慰安婦を巡る人権的状況については、きちんと区別して議論して行かないといけないですよね。

■落とし所を探る

荻上 ここからは、慰安婦問題の「今後」の話をしたいと思います。

南部 質問メールです。「両国とも感情的になっていて、当事者どうしだと解決できない問題になっているのではと感じます。なので、中立的な第三国に仲介に立ってもらい、両国の意見を出し合って落とし所を決めるしかないのではないかと思います」

荻上 和田さんは第三国に委ねるという議論についてはどう思われますか。

和田 それは無理だと思います。問題は韓国だけではなく、台湾や北朝鮮、中国本土などにもあります。この問題について国際的に仲介してもらうのではなく、国際的な支持が得られるような解決を図らなければならないと思います。木村さんがおっしゃるように国際問題化していますから。

荻上 「中立な第三者」なんて存在しないということですよね。

和田 日本は日韓基本条約の時に結んだ「日韓請求権並びに経済協力協定」ですでに請求権問題は解決したと言っています。

そうは言っても、慰安婦の問題はそこで解決したでは、済まされない問題であるということです。政府としてはアジア女性基金をやってきた経過を踏まえて、基本的には謝罪と償いをしなければなりません。

しかし、現在アジア女性基金は存在しませんから、お金は政府が出すべきです。財源の話などは一切せずに、被害者に対してお詫びのしるしとしてお金を持っていくべきだと思いますね。

荻上 なるほど。

南部 このようなツイッターも来ています。「中国、韓国はもちろんだけど、国際社会というものが最初から日本に対して予断と偏見を持っているように思えるんですけどね。理解しようとしない相手に理解してもらおうったって無理じゃないの」

また、メールも来ています。「慰安婦問題について、日本国内では強制連行があったかなかったかが中心に論じられていますが、国際社会では強制連行だけでなく、広く戦時下の女性の性暴力という意味で受け取られていると理解しています。強制連行の有無以外で日本は国際社会に対し、なにを示すべきでしょうか。あるいは強制連行がなかったと否定すること自体が間違いなのでしょうか。」

荻上 観点が違うメッセージを二つ読みました。前半は日本がどれだけ「誠実」に謝っても、相手が聞き耳を持たないなら意味がないだろうというスタンス。対して後半のメールは論点の置き方が違うんだから、日本の出す球の投げ方も違うのではというものです。木村さんはどうお考えになりますか。

木村 中国や韓国は一種の「当事者」ですから、その態度が硬いのはある程度やむを得ません。でも、この問題で第三者の立場にある国でも、日本側の主張が理解されていないとするなら、やはりこちらの「主張の仕方」を考えても良いのだと思います。個々人の人間関係でも同じですが、「正しいことを言ったからわかって貰える」と期待するのは、少し楽観的に過ぎますよね。わかって貰いたいなら、それなりの努力や工夫をするのは当然ですし、それを怠る理由もないと思います。皆さん、ご家庭で夫婦や親子でわかり合うためにはもうちょっと努力していますよね(笑)。

だからこそ、先ほどから申し上げているとおり、慰安婦問題に関して言えば、強制連行の話ばかりしていて、他の部分に関しては発信もしていない、というのはやはり問題ですよね。そこはまだまだやる余地がある。

また、最近「どうせ国際社会は日本をわかってくれない」という話がよく聞かれるように思いますが、そもそも日本は依然としてGDP第三位の経済大国で、G20においても重要国の一つなんですよ。言い換えるなら、もし日本が潜在的にも国際的な影響力がないと言うなら、いったい世界のどの国に影響力があるのか、というような話になってしまう。日本は大きな影響力を持つ国なのに、どうしてみんなそんな簡単にあきらめてしまうのか、とぼくなんかは思うんですけどね。

荻上 最近、慰安婦問題にアメリカが動いたのは韓国のロビー活動の成果だという主張も日本国内ではあります。日本がやってもしょうがないという意見もありますし、やり返すべきだという人もいて議論になっています。その辺りは木村さんはどうお考えになられますか。

木村 自分の意見をきっちり言うというのは大事なことです。しかし、日本国内ばかりで言っていても仕方ないですよね。政治家もメディアも、我々研究者もきっちりと対外的に、しかも相手に分かる形で発言していくことが大事だと思います。

和田 慰安婦問題のような問題に対して謝罪をして償いをするなんて国は他にはありません。ドイツも慰安婦と似たようなことをソ連などで行っていたのではと見られています。しかし、ドイツでは一切謝罪されていません。

女性の気持ちも考えて慎重に進めなければいけない非常にデリケートな問題ですが、日本はあえて踏み出して謝罪と償いをする努力をはじめました。オランダやフィリピンではそれなりに成功しているんですよ。どうして、韓国と台湾では相手と心を通わせられなかったのか。検証し、もう一度トライする必要があると思います

荻上 そこも反発を買っているポイントだったりしますよね。「なぜ、日本だけ謝るのか」と。橋下市長の記者会見でも触れられていました。これは、「他も謝らないのなら、日本だけが謝るのはおかしい」という意味かもしれないし「積極的に他国もやるべき」という主張かもしれない。

和田 良いことだから、日本は率先してやり、世界に対して問題を提起していると考えたほうがいいですよね。すでにやっているんだからね。

■これからの慰安婦問題

木村 ぼくは政治学者なので、和田先生とはちょっと違う言い方になってしまいますが、やはり、個々の問題に対する、作為不作為双方の行動の結果として、具体的に何の利益が得られるのか、をきちんと考えなければならない、と思います。たとえば、謝罪することによって日韓関係や日中関係が良くなれば、我々に如何なる経済的利益があるのか。逆に、領土に対する頑なな態度を取ることによって何が損なわれるのか、といった問題をきちんと考えていく。それがまともな政治だし外交だと思います。違う言い方をすれば、それが「国益を考える」ということになります。具体的な利益も考えずにイメージだけで「国益が」と言いたがる人も居るけど、実はそういう人に限って「国益が何か」なんて言うことは考えていなかったりする。ここは要注意ですね。

たとえば特定の歴史認識問題に対して、経済的等々の利益を考えて謝罪してしまうというのも一つのカードだし、経済的等々の利益が損なわれても「何かしら」を守るために謝罪しないまま、日中、日韓関係が悪いままに放置する、というのも一つの判断だと思います。ただ何のリスクをどう負っているか、それによって守られるものが何なのか、そしてそもそも「それ」はその方法で守ることができるのか、はちゃんと考えないと駄目ですね。

荻上 韓国国内でも様々な判決が出ているからこそ、日本に対して教鞭な態度にならざるをえない韓国というのも、より浮きだっている面もありますよね。

木村 韓国国内では憲法裁判所の慰安婦問題を巡る違憲判決もありましたし、何よりも韓国という国そのものが昔に比べればずっと国力をつけた結果として、日本に対して自信を持って外交に臨んでいますから、交渉はますます難しくなっています。65年に結ばれた日韓基本条約の枠も飛び超えて、慰安婦問題だけじゃなく労働者動員の問題も積極的に交渉していこうという雰囲気になっています。もう日本側が力だけで押し切れる時代ではないですね。

でもだからこそ、この状況は日本にとっても、海外の第三者の目を意識する良い機会なのだとも思います。また問題の解決のためには、韓国側にも外側の目を意識させた方がいいですね。現在は日韓基本条約の解釈が日韓両国でずれてしまっています。日本国内では、韓国の理解は通用しない、とよく言います。でも、本当に日本人がそう信じているならば、積極的に訴えかけていけばいいと思うんです。

荻上 どこにですか?

木村 日韓基本条約には、解釈の齟齬が生じた場合には仲裁委員会をつくるという規定があります。この条約については、今までもずっともめ続けているわけですが、日本政府は1回もこの提案をしていない。事を荒立てたくない、というのが本音のところなのでしょう。でもここでのポイントは、この条約が1965年にむすばれていて、2015年には50周年を迎えるということです。実際、韓国国内ではこのタイミングで日韓基本条約の見直しをしよう、なんていう話も出ています。そうすると、この条約にはあと2年しか時間がないかもしれない。条約の見直しを巡る議論がはじまれば、問題はますます複雑になって収拾がつかなくなってしまうかも知れない。

たとえばこの辺は条約そのものの異なる部分の解釈にも関わるので少し微妙な言い方になってしまうのですが、日本と韓国は互いが合意できるのであれば、この条約を巡っての法律的解釈をICJ(国際司法裁判所)に委ねてもかまわないと思います。領土問題に関しては、韓国側は「領土紛争が無い」という立場なのでICJへの付託には絶対に応じないわけですが、日韓基本条約については日本側と韓国側の解釈がズレていることは明確ですからね。

荻上 木村さんの提案としては、仲裁の手続きに取り組み、より議論を進めようということですよね。

木村 結局最後は、国際法的な解釈の問題になってしまうんです。そして、そこを乗り越えていかないと、慰安婦問題についても先に進めません。この点は領土問題にしても、労働者の戦時動員についても同じですね。

でも、ICJで領土問題を議論するのと、慰安婦問題を議論するのでは、慰安婦問題の方が、はるかにリスクが小さい、ということも重要です。島を失うか失わないか、というのは両国のナショナリズムに直接関わる問題ですから、両国政府にとっても負担が大きい。でも、慰安婦問題であれば、判決内容さえきちんとしたものであれば、両国とも受け入れが比較的容易だと思います。

何れにせよ、「宿題」が目の前にあるのは明らかですから、法的解釈の問題について真剣に取り組んだ方がいいと思います。第三者を挟めば、韓国側も問題に真剣に向き合わざるを得なくなりますしね。

荻上 和田さんの提案としては、アジア女性基金がやったことを今度は国家がやることで、韓国と和解しようというものですね。

和田 木村さんがおっしゃるとおり、仲裁委員会をつくって問題を解決するということも重要な道だとおもいます。日韓基本条約の一番の問題は植民地支配の反省が無いことです。あれからの50年間に日本政府は植民地支配について反省してきました。このような変化によってどうしてもギャップは起こっているので、調整をするべきだと思いますね。

しかし、仲裁の手続きをとるには時間がかかりますよね。しかし、元慰安婦の方はどんどん亡くなってしまうじゃないですか。106人いた原告が、憲法裁判所の判決が出た時には半数になっていますから、早く解決するためには政府が決断してやっていくしかないと思いますね。

(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」『「慰安婦問題」日本が国際的な理解を得るためには何が必要なのか」』2013年8月1日放送分より一部を抄録)

α-Synodos vol.128(2013/09/15)
Web論座 2013.9.16
http://megalodon.jp/2013-1023-1745-14/webronza.asahi.com/synodos/2013091600001.html

日記公開の裏

『慰安所管理人の日記』公開の裏側

韓国の書店にいま、実に興味深い内容の、分厚い韓国語の本が並んでいます。

 題名は『日本軍慰安所管理人の日記』。第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働いた経験のある朝鮮人男性が個人的に記していた日記のうち、慰安所や従軍慰安婦について記述があった1943~44年分を、いまの韓国語に直し、解説をつけたものです(男性は1922~57年までの日記を残していました)。男性は79年に死亡しています。

 10年ほど前、地方の古書店で売られていたこの膨大な日記を、ソウル近郊の博物館が見つけ入手。そのなかに慰安所関連の記述があるのを国立韓国学中央研究院が知り、ソウル大学名誉教授の安(アン)・ピョンジク氏が所属する「落星台(ナクソンデ)経済研究所」に調査を依頼しました。安名誉教授らは2012年5月から本格的な解読作業を始め、その成果をまとめ、今年8月半ばに刊行されたのがこの本です。

 慰安婦問題が日韓の間で大きな問題になったのは90年代初めですが、日記は戦前の、慰安所管理に携わった人物が日々書き留めていたもので、戦地における慰安所の実態というものが、「加工」されることなく、リアルに記されています。これを読めば、慰安所とはどういうものだったか、当時の状況が大体においてわかります。資料が極めて乏しい慰安婦問題の実相を知り、冷静に議論を進めるうえで、まさに一級の資料といえるでしょう。

 「落星台経済研究所」のホームページには、日記の日本語訳も掲載されています。

 日記は8月7日に日本の毎日新聞と、韓国の朝鮮日報によって、特ダネで報じられました。その報道に至る経緯は、韓国における慰安婦問題の現状と、慰安婦問題の「解決」がいかに難しいかを知るのに、格好の素材というべきものでした。

 韓国政治が専門の木村幹・神戸大学大学院教授が、この「慰安所についての日記」の存在を知ったのは、今年2月のことでした。日記の解読を進めている安名誉教授に、その日本語訳を依頼された堀和生・京都大学教授から、「知恵を貸してほしい」とメールで頼まれたのです。

 慰安婦問題は日韓間の、政治的に実に難しい問題になっているのは周知のことで、翻訳を引き受ける日本の研究者は容易に見つからなかったようです。

 安名誉教授は、慰安婦問題が大騒ぎになった90年代初め、元慰安婦の女性らへの聞き取り調査などに深くかかわった人です。慰安婦問題で最も強力な団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)とは当時、緊密な協力関係にありました。挺対協にとっては、戦前の植民地史をよく知り、古い資料も解読できる安氏は貴重な存在でした。

 しかしその後、学者としての研究姿勢を堅持する安氏と、日本を追求・攻撃する運動団体の性格を強める挺対協は対立を深め、決別。独自の道を歩んだ安氏はいま、左派と対立する「韓国ニューライト運動の理論的父親」と呼ばれるようになっています。

 とはいえ、慰安婦問題ではいまも挺対協が圧倒的な「権威」となっており、韓国では慰安婦問題の議論をコントロールする力を持っています。マスコミへの影響力も圧倒的で、挺対協に睨まれれば、元慰安婦女性への取材もできないのが現実といいます。昨春、慰安婦問題を打開しようとした当時の民主党・野田政権が解決案をひそかに韓国政府に打診しましたが、結果はあっさりノーでした。その案を、韓国外交通商部が挺対協側に事前に図ったところ、はねつけられてしまったからです。

 その意味で、「日記」が、挺対協にではなく、その「不倶戴天の敵」安名誉教授に持ち込まれ、解読されたのは、ちょっとした事件だったといえるでしょう。

 依頼を引き受け、日記の日本語訳作業を進めながら、その資料的価値を認めた木村教授らはマスコミ報道を考えます。そこで安名誉教授に相談したところ、安氏は基本的に了承しつつ、一つだけ条件を付けました。・・・・・続きを読む  


Web論座 2013.10.23
  http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2013102200003.html?iref=webronza

2013年10月17日木曜日

社説 朝日英字 野田7

EDITORIAL/社説―慰安婦問題

■Japan, South Korea should immediately resolve comfort women issue:

Distrust continues between Japan and South Korea despite the fact that they are neighboring countries with only a narrow sea between them. But a move made last year, which was revealed earlier this month, could become a breakthrough to overcome the deadlock.

In 2012, the government of Prime Minister Yoshihiko Noda and the South Korean government of President Lee Myung-bak held talks to resolve the "comfort women" issue of the wartime Japanese army and got to a point that was extremely close to reaching a political settlement. “Comfort women” is a euphemism for the women, many of them from the Korean Peninsula, who provided sex for Japanese soldiers before and during World War II.

The negotiations broke down due to the change of governments in both countries. Looking back on the progress of the talks, which were held by aides to the top leaders, however, we can find that it is possible to reach a compromise if the leaders have a strong will toward reaching a resolution.

According to testimonies of high-ranking officials of the Noda and Lee governments, the Japanese side presented the following proposal to the Korean side.

First, the Japanese ambassador to South Korea will meet with former comfort women and offer an apology to them. Then, Japan and South Korea will hold a summit meeting in which the Japanese side will express humanitarian steps to be taken, such as the offering of atonement money. The humanitarian steps will be funded by the government’s budgets.

As for the comfort women issue, the Japanese government maintains the position that the issue has been settled in the Japan-South Korea agreement on the right of claims, which was concluded when the two countries normalized diplomatic relations in 1965.

The proposal made by the Noda government is a maximum compromise to give relief to former comfort women while maintaining the government’s stance. It is a framework similar to the Asian Women’s Fund, which was implemented, starting in 1995, based on the donations of about 500 million yen ($5 million) collected from the private sector.

In the case of the Asian Women’s Fund, however, Japanese and South Korean support groups for former comfort women criticized the program, saying, “The Japanese government is avoiding its legal responsibility.” Because of that, few former comfort women accepted the atonement money in South Korea. In the talks held last year, both the Japanese and South Korean governments paid the utmost care in order to prevent former comfort women from rejecting the atonement money.

As for the Noda government’s negotiations, current Chief Cabinet Secretary Yoshihide Suga said, “None of the talks have been taken over by our administration (of Prime Minister Shinzo Abe).” Even in the Abe administration, however, some officials say that the government will look for ways to resolve the comfort women issue.

Current relations between Abe and South Korean President Park Geun-hye are so bad that they cannot hold an appropriate discussion even if they meet at international conferences. As seen last year, however, negotiations between the Noda and Lee governments progressed after the serious deterioration of bilateral relations due to Lee’s landing on one of the Takeshima islets in the Sea of Japan, which are administered by South Korea but are claimed by Japan.

If Japan and South Korea try to reach a political settlement, differing opinions could arise in both countries. But there is no doubt that both countries have to immediately mend relations by settling the issue of the former comfort women while they are still living.
Differing from the previous governments, the administrations of Abe and Park are blessed with stable political bases that can overcome thorny issues between the two countries.

Without letting this opportunity pass, they should take over the negotiations and immediately start working toward a final settlement.

--The Asahi Shimbun, Oct. 13



一衣帯水の隣国なのに、日本と韓国の間では不信の連鎖が続く。これを断ち切る突破口にならないだろうか。

日本の野田前政権と韓国の李明博(イミョンバク)前政権が昨年、旧日本軍の慰安婦問題の解決に向け話し合いを進め、政治決着の寸前までこぎ着けていたことが明らかになった。

双方の政権交代によって交渉は頓挫した。だが、首脳の側近同士が交渉した一連の経緯を振り返ってみると、解決に向けた強い意志が指導者にあるならば、歩み寄りは可能だということがわかる。

日韓の前政権高官らの証言によると、日本側は次のような案を韓国側に示したという。

駐韓日本大使が元慰安婦に会って謝罪。それを受けて日韓首脳会談を開き、日本側が償い金などの人道的措置をとることを表明する。人道的措置の原資には、政府予算をあてる。

慰安婦問題について日本政府は、1965年の国交回復時に結ばれた日韓請求権協定によって解決済みとの立場だ。

前政権の案は、こうした政府の立場を維持しつつ、元慰安婦を救済するぎりぎりの妥協策だ。かつて民間から集めた5億円あまりの寄付をもとに実施された「アジア女性基金」の事業と似た枠組みだ。

アジア女性基金では、日韓の支援団体などが「日本政府は法的責任を回避している」などと反発。韓国で償い金をうけとった元慰安婦はごくわずかにとどまった。今回はこうした轍(てつ)を踏むまいと、双方は細心の注意を払っていた。

菅官房長官は前政権の交渉について、「私どもの政権に引き継がれていることはまったくない」と語った。一方で安倍政権内にも、この問題の決着を模索すべきだとの声はある。

安倍首相と朴槿恵(パククネ)大統領はいま、国際会議で顔を合わせても、まともな会談ができないほど冷えた関係にある。ただ、昨年、交渉が進んだのは、むしろ李前大統領が竹島に上陸して、両国の関係が極度に悪化した後からのことだ。

慰安婦問題を政治決着させるとなれば、日韓双方で異論も出てくるだろう。だが、元慰安婦の存命中にこの問題に区切りをつけ、日韓関係を修復することが急務なのは間違いない。

前政権と違い、安倍、朴の両政権は、両国間のわだかまりを克服できるだけの安定した政治基盤を持っている。

この時を逃さずに交渉を引き継ぎ、最終解決を導く話し合いを早急に始めるべきだ。

朝日 2013,10.14
http://www.asahi.com/business/articles/TKY201310140113.html?ref=reca

政治決着できる慰安婦問題 朝日 野田6

(社説余滴)政治決着できる慰安婦問題 箱田哲也

ちょうど1年前、韓国の李明博(イミョンバク)大統領が日本に送った特使と野田佳彦政権の斎藤勁(つよし)・官房副長官らが、従軍慰安婦問題の政治決着に向けた最後の詰めを急いでいた。

野心的な試みは結果として時の壁に阻まれた。だが同時に、トップの意向次第で乗り越えられる問題である、ということも裏付けた。

慰安婦問題をめぐっては法的に解決済みだという日本に対し、韓国は別途に交渉の必要があると主張し、平行線をたどってきた。

一昨年の年末の首脳会談で「知恵をしぼる」と約束した日本政府は昨年春、折り合えそうな案を示した。それが実らなかったのは、支援団体の反発を恐れた韓国の外務官僚らが消極的だったためだ。大統領には当時、日本案の詳細が伝わっていなかった、という複数の証言がある。

秋になって日韓は政治決着に向け、急接近した。最大の焦点である「責任の所在」について、表現調整にかかわった日韓の関係者らは「ほぼまとまりつつあった」と口をそろえる。しかし、衆院の解散宣言で計画は霧散した。

政治決着とは、慰安婦問題での対立に両政府が終止符を打つことにほかならない。

「韓国政府が同意しても、支援団体が納得しなければ問題は解決しないだろう」。こんな声は根強い。確かに韓国には、法や規則より「道理」が先にたつような面があることは否めない。

だが、果たしてそうだろうか、とも思う。

軍事政権の終わりを告げた宣言から四半世紀。国民所得も格段に上がった。新たな政府間の合意は、昔とは異なる重みを生みはしまいか。
「安倍首相が慰安婦問題で和解するはずがない」。そんな声も聞こえる。

それでも首相は国会で「筆舌に尽くしがたい、つらい思いをされた(元慰安婦の)方々のことを思うと非常に心が痛む」と述べた。国連総会では、慰安婦に触れずに韓国の反発を招いたものの、紛争下の女性の権利重視を訴えた。

慰安婦問題の決着に向けては2年前、韓国憲法裁判所が出した決定が、日韓の背中を後押しした。この間、元慰安婦12人が亡くなった。存命の被害者は56人になった。

実現可能な解決策とは何なのか。救済すべきなのは誰なのか。日韓双方が問題の本質を被害者の救済ととらえるなら、互いに譲歩しての政治決着以外に道はない。

(はこだてつや 国際社説担当)

朝日 2013.10.17
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310160783.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201310160783

2013年10月15日火曜日

朝日 政府はどんな調査をした?

(ニュースがわからん!)慰安婦問題で政府はどんな調査をした?

◇韓国でのみ、聞き取りをした。他国では行わなかったんだ

 ホー先生 日本政府は慰安婦問題(いあんふもんだい)でどんな調査(ちょうさ)をしたんじゃ?

 A まず1991~92年に省庁(しょうちょう)などに残っていた資料(しりょう)を調べ、当時の加藤紘一官房長官(かとうこういちかんぼうちょうかん)が政府の関与(かんよ)を認(みと)める談話(だんわ)を出した。

 ホ それで終わらなかったのか?

 A そう。女性を強制的(きょうせいてき)に連行(れんこう)したことを認めるように求める韓国側が納得(なっとく)しなかった。日本側は韓国の元(もと)慰安婦16人から聞き取りもした。この証言(しょうげん)を元に、93年の河野洋平(こうのようへい)官房長官談話で本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあるとした。

 ホ 政府は問題を広げないようにしていたのか?

 A 調査は韓国を意識(いしき)したものだった。聞き取りは他国では行わなかった。

 ホ ホホウ! 調査で何がわかったんじゃ?

 A 32年の上海事変(シャンハイじへん)のころから45年の終戦(しゅうせん)にかけて、アジア各地に軍の要請(ようせい)で慰安所(いあんじょ)が設営された。多くは民間業者(みんかんぎょうしゃ)が経営(けいえい)したが、軍は管理(かんり)に関与した。

 ホ 慰安婦だったのはどこの国の女性たちじゃ?

 A 調査でわかったのは日本のほかに朝鮮半島と中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダ。人数は不明(ふめい)だ。

 ホ 調査の後は?

 A 政府主導の「女性のためのアジア平和国民基金(へいわこくみんききん)」が、償(つぐな)いの事業(じぎょう)をした。韓国、台湾、フィリピンで申請した285人に1人200万円を支給(しきゅう)した。基金は07年に解散(かいさん)した。

 ホ 補償(ほしょう)は済(す)んだのか?

 A 日本政府は国家間(こっかかん)の問題は条約(じょうやく)で法的(ほうてき)に解決済(かいけつず)みという立場(たちば)だから、補償としてのお金は出せないとの考えを譲(ゆず)らなかった。だから償い金は民間からの募金(ぼきん)で賄(まかな)った。納得して受け取った人がいた一方、政府が国として正式に補償するよう求めた人たちは受け取りを拒(こば)んだ。中国や北朝鮮など償い事業が行われなかった国もある。

 (小田健司)

朝日 2013.10.14
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201310130421.html?ref=reca

朝日 「インドネシアに圧力」

慰安婦記録出版に「懸念」 日本公使がインドネシア側に

駐インドネシア公使だった高須幸雄・国連事務次長が1993年8月、旧日本軍の慰安婦らの苦難を記録するインドネシア人作家の著作が発行されれば、両国関係に影響が出るとの懸念をインドネシア側に伝えていた。朝日新聞が情報公開で入手した外交文書などで分かった。

日本政府が当時、韓国で沸騰した慰安婦問題が東南アジアへ広がるのを防ぐ外交を進めたことが明らかになったが、高須氏の動きは文学作品の発禁を促すものとみられ、当時のスハルト独裁政権の言論弾圧に加担したと受け取られかねない。

当時の藤田公郎大使から羽田孜外相あての93年8月23日付極秘公電によると、高須氏は8月20日にインドネシア側関係者と懇談し、作家の活動を紹介する記事が7月26日付毎日新聞に掲載されたと伝えた。

この記事は、ノーベル賞候補だった作家のプラムディア・アナンタ・トゥール氏が、ジャワ島から1400キロ離れた島に戦時中に多数の少女が慰安婦として連れて行かれたと知り、取材を重ねて数百ページにまとめたと報じた。公電で作家とインドネシア側関係者の名前は黒塗りにされているが、作家は同氏とみられる。

公電によると、高須氏は「かかる資料が『イ』(インドネシア)で発行された場合に日・『イ』関係に与える反響を懸念している」と述べた。

これに対し、インドネシア側は「従軍慰安婦問題がきっかけとなり良好な日・『イ』関係が損なわれることのないよう、注意して取り扱われるべきである」と応じ、著書名がわかったら教えてほしいと要請。当局がこの作家の言動を監視し、過去の著作を発禁にしたこともあると伝えた。慰安婦問題の著作も発禁の方向で対応する考えを示唆したとみられる。

この著作はスハルト政権崩壊後の2001年になってようやく出版された。04年には日本でも「日本軍に棄(す)てられた少女たち」として発行された。プラムディア氏は06年に亡くなった。

高須氏は取材に「記憶は全くない」とした上で、公電を見た感想として「懇談の際に私が自分の気持ちを述べたのに対して相手がそう反応したのであって、圧力をかけたというのには当たらない」と回答した。

朝日 2013.10.15
http://www.asahi.com/politics/update/1014/TKY201310130285.html

2013年10月14日月曜日

戦時徴用賠償 世論工作

戦時徴用賠償 世論工作し「日本発」の動きを促す、韓国

 9月下旬、ソウルで朝鮮半島の日本統治時代に動員された戦時徴用訴訟の経緯と見通しをテーマに、原告団の代理人を務める弁護士を招き講演会が開かれた。

 「このような訴訟で原告が勝てなければ、韓国が独立した意味がない」

 講師として招かれた原告代理人の弁護士、崔鳳泰(チェ・ボンテ)はこう言い切った。原告側が裁判の行方に自信を持つには理由がある。

差し押さえは慎重

 昨年5月に韓国・最高裁が新日鉄住金(旧日本製鉄)と三菱重工業の元徴用労働者の個人請求権は消滅していないとする判断を初めて示し、ソウル、釜山の両高裁に差し戻して以降、同様の訴訟が4件出された。今年7月に相次いで企業側に賠償を命じる高裁判決が出されるなど原告勝訴の流れが定着しつつあるのだ。

 7月10日のソウル高裁判決では新日鉄住金に元徴用労働者4人への損害賠償支払いを命じた。賠償額は原告1人当たり請求満額の1億ウォン(920万円)。新日鉄住金が韓国に保有する資産の差し押さえの仮執行まで認めた。ただ、崔は日本企業の在韓資産への差し押さえを実行するか問われると、「原告の考え方次第だが、それはしないほうがいい」と述べ、企業側が賠償金を自主的に支払うことを促していく考えを示した。裁判には自信を示す原告団が差し押さえに慎重なのはなぜか。

 「(韓国内で)国民的な共感を得るには至っていないからだ」

 元徴用労働者の支援者は焦りをあらわにし、別の支援者は韓国政府にぶつける。

 「慰安婦問題では韓国外務省や同胞団体が対日包囲網を形成している。だが韓国政府は元徴用労働者についてはまったくといっていいほど動こうとしない」

 韓国政府は2005年8月、元徴用労働者問題などの日韓請求権に関する官民合同委員会を開設。「慰安婦」などの賠償請求権は、1965年の日韓請求権協定に含まれないとする一方で、日本側が拠出した3億ドルの無償経済協力には「個人財産権、強制動員の被害補償問題の解決金などが含まれている」とする見解をまとめた。今後もこの立場を変えるのは難しいとみられている。韓国政府筋は「司法判断が韓国政府の従来の立場を超えており困惑がある」ともらす。

 そこで原告団は世論を喚起しようとしている。“標的”となっているのが日本の法曹界やメディアだ。日本国内から、「日本は賠償すべきだとのムードを作り出すのがねらい」(原告団関係者)という。

 特に韓国の原告側弁護団が重視しているのが日本弁護士連合会(日弁連)との協力関係。日弁連は近年、「戦争および植民地支配における人権侵害の救済のための共同行動」に力を注いでいる。

メディアとも懇談

 日弁連は8月30日、ソウルの国会議員会館内で韓国側と合同のセミナーを開いた。日弁連会長、山岸憲司が祝辞を寄せ、参加した弁護士が慰安婦や戦時徴用問題の現状、課題を分析した調査報告を報告した。

 2010年にはソウルと東京で、日本の日弁連に相当する大韓弁護士協会とシンポジウムを開催。日韓両国弁護士会の「共同宣言」を出したほか、「日本軍『慰安婦』問題の最終的解決に関する宣言」を共同で公表した。

 原告団関係者は語る。

 「日弁連との共闘態勢を整えたことで、日本の市民団体など日本国内の“良心的”勢力にアプローチする足がかりを得た」

 また、大韓弁護士協会は7月のソウル高裁の判決から6日後、ソウルに駐在する日本メディアを集め懇談会を開いた。協会では「日帝被害者問題の解決方法をともに模索するとともに、積極的な記事掲載を要請する会合」と位置づけている。協会は活動報告のなかで「(日本の)言論15社から21人の記者が参加し、翌日の社説などに懇談会に関する記事が掲載された」と意義を強調した。原告側は日韓での世論作りを進め、日韓両政府に圧力をかけたいとしている。戦時徴用訴訟は、日本の国際的な品位をおとしめて韓国の地位を高める“ジャパンディスカウント”に利用されている慰安婦問題とは様相が異なるが、「日本発」で事態を拡大しようという点では同じといえる。

 「いずれ韓国政府が慎重姿勢を一変させ、日本政府に賠償支払いを促すよう求めてくるのではないか」

 日本の外交筋が危惧する今後の展開だ。(敬称略)=第6部おわり



 この企画は有元隆志、岡部伸、木村さやか、住井亨介、田北真樹子、板東和正、ソウル 加藤達也、北京 矢板明夫が担当しました。



【用語解説】新日鉄住金(旧日本製鉄)の戦時徴用訴訟

 戦時中の昭和16~18年ごろに徴用され、朝鮮半島から日本に渡った80~90代の元労働者の韓国人男性4人が、旧日本製鉄の大阪製鉄所などで当初の説明とは異なる過酷な勤務を強いられたなどとして、損害賠償や未払い賃金の支払いを求めた訴訟。今年3月には、別の元徴用工の男性8人が新たに同社への賠償を求める訴えをソウル中央地裁に起こしている。

産経 2013.10.12

http://megalodon.jp/2013-1014-2221-31/sankei.jp.msn.com/world/news/131012/kor13101210060003-n1.htm
http://megalodon.jp/2013-1014-2223-01/sankei.jp.msn.com/world/news/131012/kor13101210060003-n2.htm
http://megalodon.jp/2013-1014-2224-22/sankei.jp.msn.com/world/news/131012/kor13101210060003-n3.htm
http://megalodon.jp/2013-1014-2225-28/sankei.jp.msn.com/world/news/131012/kor13101210060003-n4.htm

朝日 「東南アジアでは聞き取りしなかった」 2

インドネシア「非難声明、穏当にした」 慰安婦問題

 韓国で慰安婦問題が沸騰した後、日本政府は真相究明よりも東南アジアへの拡大阻止を優先して動いていた――。約20年前の外交文書を入手し、取材班はこの夏、インドネシアへ飛んだ。スハルト大統領の独裁下にあったインドネシア政府が日本の外交にどう対応したのかを知るためだ。

■スハルト氏の意向くむ
 インドネシア政府が日本の調査結果を非難する声明を出したのは1992年7月。声明を書いた当時の外務省政務総局長ウィルヨノ・サストロハンドヨ氏(79)が、ジャカルタの研究機関の自室で2度にわたり4時間半、取材に応じた。
 ウィルヨノ氏は声明に「強制売春」「女性たちの尊厳は日本政府が何をしても癒やされない」など厳しい言葉を並べたが、「本件を大きくすることを意図しない」と結んだ。スハルト氏の意向をくみ、穏当にまとめたつもりだった。
 「本当はもっときつい声明を書きたかったが、大統領に従わなければならなかった。つらかった」
 それでも、ジャカルタの日本大使館幹部はすぐに抗議してきたという。ウィルヨノ氏は「なぜこんな声明を出したのかと言われ、被害国として当然だと反論した」と顔をゆがめた。
 両国は58年に戦争賠償を決着させ、関係を深めた。日本からの途上国援助(ODA)は2011年度までに累計5兆2千億円超で国別で最大だ。インドネシアから見ても日本は最大の援助国。スハルト氏は日本を重視し、98年の政権崩壊まで戦争被害に冷たかった。
 慰安婦問題の国内対応を担ったインテン・スエノ元社会相(68)は、ジャカルタにある邸宅で取材に応じた。東南アジアへの拡大を防ぐ当時の日本政府の姿勢を「理解できる」と語った。スハルト氏の強い意向を知っていたので、日本政府に聞き取り調査を求めるつもりはなかったという。
 東京で日本側から抗議された元公使のラハルジョ・ジョヨヌゴロ氏(72)にも会えた。記憶は薄れていたが、「日本との友好を維持するため少しの間違いも許されない雰囲気だった」と語った。
■日本「他国をあおりたくなかった」
 日本政府の本音は何だったのか。取材班はインドネシアから帰国し、慰安婦問題を担った約20人の政府高官や外務官僚を訪ね歩いた。直接取材に応じたのは12人で、うち実名報道を承諾したのは5人だった。
 その一人、全省庁の官僚を束ねていた石原信雄・元官房副長官(86)は「シビアに問題提起してきたのは韓国だけ。他国から問題提起されていないのに、進んで調査する気はなかった」と証言した。東南アジアで聞き取りをしなかったのは、相手国の行政実務に問題があり、調査対象の元慰安婦を的確に探し出せるか疑問だったからだという。
 石原氏は「外務省の末端の行動は知らないが、政府がもみ消しに回ったことはない。政府がかかわる以上、公平性、正確性は非常に重要だ」と力説した。
 だが、石原氏の下で奔走した当時の内閣官房担当者の説明は違う。「我々も外務省も静かに済ませたかった。韓国以外で聞き取りをする感じではなかった。現実の政策はそういうものだ」。別の担当者も「他国をあおりたくなかった。韓国での聞き取りで幕引きにしたかった」と語った。
 インドネシア外交を担った外務省OBはインドネシア政府の声明に抗議したと認め、「問題が大きくなったらやりにくくなる。いい加減にしてほしいという圧力だった」と証言した。
 情報公開で得た外交文書とは別の内部文書も取材で見つけた。インドネシアの声明に対し、ODAを進めた大使経験者が「いろいろやってるのに、そんなことを今さら持ち出すとはなんだ」と非難していた。
 河野洋平元官房長官には6月と10月に取材を申し込んだが、事務所を通じ「取材はお受けしない」と回答があった。外務省は「当時の経緯を確認中」としている。
■多くは90歳前後「次会うときは死んでいるかも」
 インドネシアでは90年代、民間団体の呼びかけに約2万人が旧日本軍から性暴力を受けたと申し出た。慰安婦ではなかった人もいるとみられるが、実態は不明だ。
 ジャワ島から600キロ離れたスラウェシ島は、支援組織が根を張る。日本政府は国内での資料調査でこの島に21カ所の慰安所があったことを確認したが、現地で聞き取りはしなかった。取材班は7月、支援組織から紹介を受け、慰安婦だったと名乗る女性や目撃者ら約20人と会った。多くは90歳前後。つらい記憶を胸に生きてきた体験を時に涙を流しながら語った。
 南西部ピンラン県のイタンさんはトタンで作った約10畳の小屋に住む。日本兵に連行され、終戦まで数カ月間、木造の建物で連日のように複数の兵士に犯されたと証言した。「今からでも日本政府にちゃんと償ってほしい。せめて子や孫に家を残したい」と訴えた。
 ミナサさんは自宅そばの森で2年間、強姦(ごうかん)され続けたと訴えた。足腰が弱り介助がないと歩けない。「今度あなたと会う時は、私はもう死んでいるかもね」
 河野談話の前年、インドネシアで初めて元慰安婦だと名乗り出た女性は約10年前に他界した。彼女の生涯をたどる映画が今夏、ほぼできた。制作にかかわったジャーナリストのエカ・ヒンドラティさんは「慰安婦問題が未解決のままであることを、若い世代に伝えたい」。風化への懸念が募る。

朝日 2013.10.13
http://www.asahi.com/politics/update/1013/TKY201310120358.html

朝日 「東南アジアでは聞き取りしなかった」

慰安婦問題の拡大阻止 92~93年、東南アで調査せず

 旧日本軍の慰安婦問題が日韓間で政治問題になり始めた1992~93年、日本政府が他国への拡大を防ぐため、韓国で実施した聞き取り調査を東南アジアでは回避していたことが、朝日新聞が情報公開で入手した外交文書や政府関係者への取材で分かった。韓国以外でも調査を進めるという当時の公式見解と矛盾するものだ。

インドネシア「非難声明、穏当にした」

 「河野談話」が出る直前の93年7月30日付の極秘公電によると、武藤嘉文外相(当時)は日本政府が韓国で実施した被害者からの聞き取り調査に関連し、フィリピン、インドネシア、マレーシアにある日本大使館に「関心を徒(いたずら)に煽(あお)る結果となることを回避するとの観点からもできるだけ避けたい」として、3カ国では実施しない方針を伝えていた。

 日本政府は当時、内閣外政審議室長が「(調査)対象を朝鮮半島に限っていない」と答弁するなど、韓国以外でも真相究明を進める姿勢を示していたが、水面下では問題の波及を防ごうとしていたことになる。

 インドネシア政府が日本政府の慰安婦問題の調査は不十分などと抗議する声明を出したことについて、外務省の林景一南東アジア2課長(現駐英大使)が92年7月14日にインドネシアの在京公使に申し入れた内容を記す文書もあった。

 林氏は「信用できないと断定されたに等しく、残念」と抗議。両政府間で戦争賠償は決着しており、慰安婦への補償を求められることは「ありえない」と批判した。さらにインドネシア政府の担当者が声明を発表した際、旧日本兵の処罰を求める発言をしたことに触れ、「韓国ですら問題にしていない。かかる発言は驚き」と非難した。

 当時の宮沢内閣で慰安婦問題を仕切った政府高官は「問題が大きくなっていた韓国以外には広げたくなかった。問題をほじくり返し、他国との関係を不安定にしたくなかった」と語る。

■韓国と別対応、収束急ぐ
 《解説》被害者は韓国女性に限らないのに、慰安婦問題は「日韓の政治問題」という印象が定着した。背景には、日本批判が高まった韓国と他国を切り離して対応し、事態の収束を急ぐ日本の外交方針があった。
 当時の宮沢内閣は役所に眠る資料を探し、韓国では聞き取り調査をした。韓国世論の高まりに対処するための異例の態勢だった。その韓国では今も慰安婦問題は収まっていない。
 一方、韓国に刺激されて世論が高まり始めた東南アジアでは真相解明に後ろ向きで、聞き取り調査をしなかった。戦場だった国々に慰安婦問題が波及して深刻な実態が明らかになるのを恐れた、と当時の政府高官は明かす。東南アジア諸国も経済発展を優先し、途上国援助(ODA)を受ける日本政府との関係悪化を恐れて政治問題化を避けた。
 政府間の思惑が一致した結果、置き去りにされたのは被害者だ。今夏、インドネシアで彼女らを取材した。大半は90歳前後。インドネシアでは、日本政府が主導したアジア女性基金の「償い金」は同国の意向で元慰安婦に渡らず、元慰安婦に限定しない福祉事業にほぼとどまった。救済どころか、実態調査さえ行われていない。これが20年後の現実だ。
     ◇
 〈慰安婦問題〉 旧日本軍の要請などにより各地に慰安所が設けられた。加藤紘一官房長官は92年7月、政府の関与を認める調査結果を発表。河野洋平官房長官は93年8月の談話で「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」と認めた。

朝日 2013.10.13
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310120357.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201310120357

朝日 合意目前(社説) 野田5


(社説)慰安婦問題 政治の意志があれば

一衣帯水の隣国なのに、日本と韓国の間では不信の連鎖が続く。これを断ち切る突破口にならないだろうか。

日本の野田前政権と韓国の李明博(イミョンバク)前政権が昨年、旧日本軍の慰安婦問題の解決に向け話し合いを進め、政治決着の寸前までこぎ着けていたことが明らかになった。

双方の政権交代によって交渉は頓挫した。だが、首脳の側近同士が交渉した一連の経緯を振り返ってみると、解決に向けた強い意志が指導者にあるならば、歩み寄りは可能だということがわかる。

日韓の前政権高官らの証言によると、日本側は次のような案を韓国側に示したという。

駐韓日本大使が元慰安婦に会って謝罪。それを受けて日韓首脳会談を開き、日本側が償い金などの人道的措置をとることを表明する。人道的措置の原資には、政府予算をあてる。

慰安婦問題について日本政府は、1965年の国交回復時に結ばれた日韓請求権協定によって解決済みとの立場だ。

前政権の案は、こうした政府の立場を維持しつつ、元慰安婦を救済するぎりぎりの妥協策だ。かつて民間から集めた5億円あまりの寄付をもとに実施された「アジア女性基金」の事業と似た枠組みだ。

アジア女性基金では、日韓の支援団体などが「日本政府は法的責任を回避している」などと反発。韓国で償い金をうけとった元慰安婦はごくわずかにとどまった。今回はこうした轍(てつ)を踏むまいと、双方は細心の注意を払っていた。

菅官房長官は前政権の交渉について、「私どもの政権に引き継がれていることはまったくない」と語った。一方で安倍政権内にも、この問題の決着を模索すべきだとの声はある。

安倍首相と朴槿恵(パククネ)大統領はいま、国際会議で顔を合わせても、まともな会談ができないほど冷えた関係にある。ただ、昨年、交渉が進んだのは、むしろ李前大統領が竹島に上陸して、両国の関係が極度に悪化した後からのことだ。

慰安婦問題を政治決着させるとなれば、日韓双方で異論も出てくるだろう。だが、元慰安婦の存命中にこの問題に区切りをつけ、日韓関係を修復することが急務なのは間違いない。

前政権と違い、安倍、朴の両政権は、両国間のわだかまりを克服できるだけの安定した政治基盤を持っている。

この時を逃さずに交渉を引き継ぎ、最終解決を導く話し合いを早急に始めるべきだ。

朝日 2013.10.13
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310120401.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201310120401

2013年10月11日金曜日

日本政府 野田政権 4 (中央日報)

「日本首相、謝罪文の調整だけ残し…慰安婦交渉、昨年妥結直前に白紙」

「弁護士たちが使いそうな表現ではいけない。もっと胸に迫るような表現でなければならない」。

昨年10月末、東京のあるホテルで向き合っていた日本政府の斎藤勁官房副長官に、李東官(イ・ドングァン、大統領府、当時は外交通商部言論文化協力大使)元青瓦台(チョンワデ、大統領府)広報首席がこう要求した。慰安婦問題の解決方法を見出そうと額を突き合わせていた席だ。中断と再開を繰り返してきた両国間の交渉は、この時が最後だった。2人は日本の野田佳彦首相が従軍慰安婦被害者に送る手紙の文面をめぐって格闘中だった。

「野田氏の手紙」は、双方が合意した問題解決方案のうちの1つであった。斎藤氏が持ってきた文面は「(日本)軍が関与した慰安婦問題によって女性たちが経験した苦痛と傷に、日本政府は責任を免れない」であった。だが李元首席は「責任を免れない」という曖昧な表現よりも「責任を痛感する」という直接的な表現を要求した。いくつかの案をやりとりした後、斎藤氏は「韓国政府の意見を野田首相に伝える」と述べた。終わりが見えないと思っていた慰安婦問題解決の終着駅が見えた。だが野田氏が「最終決断」をぐずぐずしている間に、日本国内の政治はますます荒波に包まれ、電撃的な衆議院解散宣言で慰安婦問題解決の機会は妥結直前で再び失敗に終わった。

日本の朝日新聞は8日付で、斎藤元副長官とのインタビューに基づき「昨年秋に両国政府が慰安婦問題の妥結を目前にしていたが、日本の議会解散などで失敗に終わった」と報道した。斎藤氏は李元首席との会合を振り返って「最終的に残っていたのは野田首相が被害者に書く手紙の文面だけだった」として遺憾を表わした。当時カウンターパートにいた李元首席も中央日報に「当時の交渉は9合目を越えていた」と語った。

2人の伝言によれば両国、特に日本が動き始めたのは2011年12月に京都で開かれた両国首脳会談が慰安婦問題でこじれた後だった。当時、李明博(イ・ミョンバク)元大統領が会談後に「弁護士と話すようだった」と打ち明けたほど野田首相の態度は硬直していた。だが「韓国の李明博政権、日本の民主党政権でなければ慰安婦問題解決が難しい」という共感が双方にあったという。

昨年3月、佐々江賢一郎外務次官が日本側の提案を持って訪韓した。駐韓日本大使が慰安婦被害者に謝罪し、続いて野田首相が李大統領と首脳会談を通じて日本が取る人道的措置を説明し、以後日本政府が人道的措置の費用を支払うという提案だった。4月には斎藤氏が韓国を訪れ「慰安婦問題を解決したい」という野田首相の親書を李大統領に渡した。だが韓国政府は日本側の提案に否定的だった。「国家責任」を明らかに認めないところに「賠償金」という表現を使うことを敬遠したためだ。この案では慰安婦関連団体を説得できないと判断した韓国政府は「慰安婦被害者を直接説得せよ」と日本側に話し、日本側からは「両手両足をとられた」という不満が噴き出した。

小康状態だった交渉が再び活発化したのは両国関係が最悪になった昨年8月、当時の李大統領の独島(ドクト、日本名・竹島)訪問後であった。領土対立のために慰安婦問題解決の機会まで完全に喪失するのではと憂慮した知識人が動いた。和田春樹東京大名誉教授と韓国人学者が橋渡しをした。日本政府からは「交渉相手は、李大統領が慰安婦問題解決の意志を持っているか確認できる人でなければならない」と要求し、それで側近の李元首席が出ることになったという。日本側のこれまでの提案に▼野田首相が慰安婦被害者に送るおわびの手紙を朗読してこれを駐韓日本大使が被害者に手渡す▼日本政府が特別予算を通じて被害者に「償い金」を支給する方案を検討するなど一部の進展があった。

以後、野田氏の衆議院解散によってすべてが白紙に戻ってしまった後、斎藤氏は李元首席に電話をかけて「突然このようなことになって申し訳ない」と謝ったという。

中央日報日本語版 2013.10.9
http://megalodon.jp/2013-1009-1804-06/japanese.joins.com/article/912/176912.html?servcode=A00&sectcode=A10
http://megalodon.jp/2013-1009-1805-48/japanese.joins.com/article/913/176913.html?servcode=A00&sectcode=A10

日本政府 野田政権 3 (韓国政府の否定)


"MB정부 때 日에 위안부 문제 협상 비밀특사 보내"

아사히신문 보도 "협상 타결 직전까지 갔지만 日국회 해산되며 교섭 중단"


이명박 전 대통령이 재임 중에 일본군 위안부 피해자 문제의 해결을 위해 일본에 특사를 파견하는 등 비공개 교섭을 했다고 아사히(朝日)신문이 8일 보도했다.

사이토 쓰요시(齋藤勁) 당시 관방 부장관은 이 신문에 "이 전 대통령이 작년 8월 자신의 독도 방문으로 한·일 관계가 악화되자 이를 타개하기 위해 일본에 측근을 특사로 수차례 파견했다"고 말했다.

일본 정부는 지난해 3월 우리 정부에 ▲주한 일본 대사의 사과 ▲피해자들에 대한 보상금 지원 등을 제안했지만 당시 한국 정부는 이를 거부했었다. 하지만 이 전 대통령이 작년 10월 이후 일본에 측근을 여러 차례 보냈으며 일본의 기존 제안과 함께 노다 요시히코(野田佳彦) 당시 총리가 피해자들에게 서신을 보내는 방안에 양측이 거의 합의했다고 신문은 전했다. 사이토 전 부장관은 "편지의 표현 협의만 남겨둘 정도로 협상이 진전됐지만 작년 11월 국회가 해산되면서 교섭이 중단됐다"고 말했다.

일본은 당시 위안부 피해자 1인당 300만엔(당시 환율 기준 4000여만원) 수준의 위로금을 정부 예산으로 줄 뜻도 밝혔던 것으로 알려졌다.

이에 대해 당시 우리 정부 관계자들은 일본과 협의를 한 것은 맞지만 일본이 돈만 내세우고 위안부 문제에 대한 국가 차원의 법적 책임은 인정하지 않아 협상이 무산됐다고 전했다. 청와대와 외교부 내에서도 반대 의견이 많았다고 한다. 천영우 전 청와대 외교안보수석은 본지 통화에서 "편지 표현을 조율할 정도로 거의 합의됐다는 것은 맞지 않는다"며 "양국 정부의 인식과 접근법 자체가 너무 달랐다"고 말했다.

朝鮮日報 2013.10.9
http://megalodon.jp/2013-1009-0619-38/news.chosun.com/site/data/html_dir/2013/10/09/2013100900282.html?news_Head3

「李明博政権時、日本に慰安婦問題交渉の密使送る」

朝日新聞報道「交渉妥結直前まで行ったが、日本の国会が解散し交渉中断」


イ・ミョンバク前大統領が在任中に日本軍慰安婦被害者問題の解決のために日本に特使を派遣するなど非公開交渉をしたと朝日新聞が8日報道した。

斎藤勁当時官房副長官はこの新聞に「この前大統領が昨年8月自身の独島訪問で韓日関係が悪化すると即座にこれを打開するため日本に側近を特使として数回派遣した」と話した。

日本政府は昨年3月わが政府に▲駐韓日本大使の謝罪▲被害者に対する補償金支援などを提案したが当時韓国政府はこれを拒否した。 しかし、前大統領が昨年10月以後日本に側近を数回も送り、日本のこれまでの提案と共に野田佳彦総理(当時)が被害者に書簡を送る案で両国がほぼ合意したと新聞は伝えた。 斎藤前副長官は「手紙の文面の協議だけを残すまで交渉が進展したが、昨年11月国会が解散され、交渉が中断された」と話した。

日本は当時慰安婦被害者1人当り300万円(当時の為替レートで4000万ウォン余り)程度の慰労金を政府予算で与える意向も明かしたことが分かった。

これについて、当時政府関係者たちが日本と協議をしたことは確かだが、日本がお金だけ前に出し慰安婦問題に対する国家レベルの法的責任は認めず交渉が失敗に終わったと伝えた。 大統領府と外交部内でも反対意見が多かったという。 チョン・ヨンウ前大統領府外交安保首席は本紙との電話で「手紙の文面を調整するまでほとんど合意したというのは違う」とし「両国政府の認識とアプローチ自体があまりにも違っていた」と話した。

2013年10月10日木曜日

官房長官 否定 野田8


菅官房長官、前政権の慰安婦問題交渉「具体的に進んでいなかった」

菅義偉官房長官は9日の記者会見で、慰安婦問題をめぐり野田佳彦前政権が被害者へのおわびで韓国政府と決着を図ろうとしていたとする一部報道について「具体的に話は進んでいなかったようだ」と述べた。「現政権に(交渉が)引き継がれていることはない」とも説明。慰安婦問題は決着済みとの立場を強調した。

産経 2013.10.9
http://megalodon.jp/2013-1010-0624-08/sankei.jp.msn.com/politics/news/131009/plc13100922560019-n1.htm

朝日・アレックス・カー

 日中戦争、日韓併合、従軍慰安婦……。歴史認識をめぐる政治家の発言が、中国や韓国から批判され、日本国内からは相手国への反発の声が上がる。この「負の循環」は終わりが見えない。対立を超える道はないのか。日本の伝統的な美術や、アジアの文化に詳しいアレックス・カーさんに打開の知恵を尋ねた。

――歴史に関する政治家の発言が、外交問題に発展するケースが後を絶ちません。
「歴史を直(ちょく)に見ない、歴史を編集したがるのは、ある意味、アジア全体の問題です。中国は膨大な死者が出た文化大革命をめぐる矛盾が、複雑な問題として残っている。タイも戦前から戦後にかけてあったファシスト系の軍事政権の過去を、いまだ処理できていない。この問題は日本だけの問題ではありません」

――しかし、日本の政治家の歴史認識は政治問題化します。

「政府が『戦争を起こしたことは申し訳なかった』と言っても、すぐに政治家が『違う、日本は正しかった』と発言するから、中国や韓国から見れば、日本はまったく歴史を認めていない、ということになってしまう。実は反省している人々はたくさんいるのに。尖閣諸島をめぐって日本側から『歴史』を言い出すと、笑いものにされます。歴史を直に受け入れなければ、歴史を語る立場にはない。この点を踏まえないことが、日本の政治家の甘い部分だと思います」

――同じ敗戦国のドイツでは周辺国と同種の問題は起きていません。

「ドイツは戦争の過ちを法律上も、学校教育の場でも、様々な博物館でも示しています。ドイツを恨む国はありません。日本には原爆ドームなど戦争で被害を受けたことを示す記念館はありますが、海外での加害を示す記念館はありますか。さらに、日本では日清戦争に始まり、韓国併合、第2次大戦といった近代の歴史に関して教育の場で『空白』箇所が多く、歴史をぼかしたり、政治家が軽率な発言をしたりしたツケが回っているのです」

――日本人は加害を直視せよ、ということですか。

「私は、その機会はもう逸した、通り越してしまったと思っています。若者は教育を受けていない。政治は経済問題にばかり力を入れている。現実、日本の中ではその論争はすでに終わっていると思います」

――それでは、中国や韓国との和解も難しくなりませんか。

「歴史については難しいでしょう。ただ、今の時代は、お互いの経済関係が複雑になり、損益でつながっている。いろいろ論争があってもそういう問題を避けて通る『バイパス』で、上手に解決していくことができると思っています」
「政府レベルでは尖閣問題もあるけど、日本企業と中国企業の間では緊密な関係ができている。そのバイパスを太くしていけば、歴史をめぐる問題はゼロにはならないものの、ウエートは軽くなる」

――それでも、中国では尖閣問題をめぐる反日デモで

日系企業や商店に投石や放火が相次ぐなど、政治が経済に大きく影響します。
「そう、確かに中国は大変です。『慎重に』というしかない。でも、バイパスにも2通りある。中国と経済や文化面でもっと緊密な関係を持つのが一つ。もう一つは、中国ばかりに依存しないで、東南アジアやアフリカなどにも進出すること。中国一辺倒では危ういでしょう」

――知恵が必要なのですね。

「アジアには本音と建前という知恵が昔からある。お互いのメンツを守りながら解決を探ることはできるはずです。本音と建前を使い分けていくことで、突破口がきっと見つかると思う。中国もそう考えているでしょうね。歴史や領土の問題については表では譲らないことにしながら、裏ではお互いに譲り合っている。楽観的かもしれないが、そうなるのではないかと思っています。米国ではそんな妥協ができないから、今、(予算を巡って)政府と議会が大変なことになっている」

■     ■

――日本と近隣国との間には、靖国神社の問題があります。鎮魂の祈りの対象か、侵略戦争の象徴か、と見方も大きく分かれます。

「先日、米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑に行きました。少しずつ、(戦没者慰霊の場としての)重心が、千鳥ケ淵に移っていくと思います。靖国神社の問題は、正面からぶつかっても、無理があります。しかし、これにも『バイパス』は考えられます。外交の世界で始まり、日本国内でも公的に千鳥ケ淵へ少しずつシフトしていく。これが前向きな方向の一つだと思います」

――カーさんは京都・亀岡の天満宮で暮らし、神道とのつながりも深いですね。その立場から靖国神社をどう見ますか。

「私は靖国神社が嫌いではないし、参拝したこともあります。日本国民のほぼ全員が賛同した戦争で、全員に責任がある。A級戦犯がまつられていること自体も私は問題視していません。戦没者のための祈りの場は、神社の中にあっても、おかしくないと思います。欧米では教会の中にあるケースもありますね。しかし、靖国神社は、あの戦争を肯定するかのような遊就館という施設を造り、政治的な道を選びました。とても残念です。そういう選択をしなければ、もっと美しい靖国があった。神道の尊い面、深い面が今の時代に発揮されればよいのに、と思います。伊勢神宮も明治神宮も何も言わない。沈黙の中に神々しい空気が宿っています。これが本来の姿です」

――首相の参拝が、政治的な道を助長してしまったのでしょうか。

「そうですね。もし、(靖国神社が)沈黙を保ったのなら、総理大臣が行っても誰が行ってもいいし、個人の思いに委ねればいいと思いますよ。でも、現状では、天皇陛下も行っていませんね」

■     ■

――日本の天皇制については、どう考えていますか。

「私は日本は天皇制を残して良かったと思っています。進駐軍と狂信的な和平反対派との軍事衝突を避けることができたし、日本の歴史を考えても、戦争に負けたからといって、天皇制を廃止するわけにはいかなかったでしょう」
「ただ、天皇を江戸城から京都御所に戻す、つまり、政治の場から文化的活動の舞台に戻せば、もっと良かっただろうと思います。天皇が京都御所に住むことになれば、京都もプライドを持っただろうし、つまらない開発で街をお粗末にはしなかったことでしょう。平安時代以降の日本の歴史を振り返ると、9割以上の期間、天皇は政治に関わっていません。修学院離宮や桂離宮といった建築や、公家から庶民に広がった和歌など、文化面の影響力ははかり知れない。『ソフトパワー』の意味で、日本の皇室は重要なのです」

■     ■

――歴史を直視しない姿勢は、現実を直視しないことにもつながります。東京電力福島第一原発事故の対応の問題とも関連する問題に思えますが、いかがですか。

「原発をめぐっては電力会社や官僚、研究者、メディアを含めた、強固なシステムがありました。この『ムラ』の上に座ってあぐらをかいた。そんな安逸が、日本の悪の根源だと思います。原発事故の際も、日本は情報を出そうとしなかった。情報を開示すれば、反対派からも賛成派からも議論を招いて、政治の場でもホットな問題になったでしょう。そういう事態を避けたがる。今の米国はその真逆で、オバマ大統領は楽じゃない。でも大変さから生まれる健全なものもある」

――厳しさを避けたがる日本に希望はあるのでしょうか。

「国はどうにもならないから、ローカルなところで何ができるか、私は考えています。地域再生の関係で私が関わっている、ある小さな市では、市長が先進的な考えを持って取り組んでいます。国の支援や補助はあるかもしれないけど、国がどうしてくれるか、というのを待ってはいません。自分たちのやるべきことを進めていく。それで、インターネットを通じて人がわっと集まってくる。これも『バイパス』です。中央省庁や政治家がどう動くか、見なくていいし、待たなくてもいい。自分たちで態勢を組んで進むことで、意外と成功はできると思っています」



Alex Kerr 52年米国生まれ。64~66年に横浜市の米海軍基地で生活、73年から徳島・祖谷(いや)で古民家再生に取り組む。著書に「犬と鬼」など。

<取材を終えて>
相手との溝ばかり気にしていると、頭がカッカして、本来の知恵が出てこない。急がば回れ、損して得取れ。解決困難な問題は避けて、実質的な前進を目指す「バイパス論」を説くカーさんの話に、己の短慮を気づかされた。
日中国交正常化の折、当時の周恩来中国首相が「小異を残して大同につく」と呼びかけたのは、こうした知恵の表れだったのだろう。日韓両国の間で領有権について争いが続く「竹島」をめぐり、国交正常化交渉の際に韓国代表だった金鍾泌氏が「爆破してしまおう」といったのも、脳髄を振り絞った結果だろう。
我々の世代も、彼ら道を開いた先達たちに匹敵する知恵が、今こそ求められている。(駒野剛)

朝日 2013.10.10

2013年10月8日火曜日

日本政府 野田政権 2

慰安婦問題 野田―李政権で幻の政治決着 昨秋交渉

 【箱田哲也】日本と韓国間の懸案となっている従軍慰安婦問題で、両国政府が昨年秋、被害者へのおわびや人道支援などで最終的に解決させることで合意しかけていたことが双方の関係者の話で明らかになった。野田佳彦首相が元慰安婦に送る手紙の文言で最終的な詰めに入っていたが、衆院の解散で動きは止まったという。

 日本政府関係者によると安倍政権発足後は慰安婦問題は協議されていない。慰安婦問題をめぐっては韓国の憲法裁判所が一昨年8月、韓国政府が日本と交渉しないことを違憲と判断。同年12月に京都であった日韓首脳会談はこの問題で決裂した。日本政府は野田首相や斎藤勁(つよし)・官房副長官が外務省幹部と検討を重ね、昨年3月、佐々江賢一郎・外務次官を訪韓させた。

 当時の複数の日韓政府高官によると、次官は(1)政府代表としての駐韓日本大使による元慰安婦へのおわび(2)野田首相が李明博(イミョンバク)大統領と会談し、人道的措置を説明(3)償い金などの人道的措置への100%政府資金による支出――の3点を提案した。

 日本政府は慰安婦問題について、日韓請求権協定により解決済みとの立場。これを守りつつ人道支援を探るぎりぎりの内容だった。

 韓国政府はいったん提案を拒否したが、昨年8月に李大統領が竹島を訪問し、関係が悪化した後、慰安婦問題の協議が活発化。同10月からは李大統領が側近を日本に送り、日本案を土台に、元慰安婦らへの首相の手紙の中身について話し合ったが、妥結直前で衆院解散となったという。

 官邸で交渉の中心的役割を担った斎藤氏は「もう少し時間があれば合意できた」と述べ、日韓の新政権で協議を続けるべきだと訴える。韓国の現朴槿恵(パククネ)政権の当局者からは「残った調整作業で折り合えるなら昨年の動きを結実させることも可能」との声が出ている。朝日新聞は野田氏側に取材を申し入れたが、7日現在回答はない。

朝日 2013.10.8

日本政府 野田政権 1

慰安婦協議再開「首相次第」 斎藤前官房副長官一問一答

慰安婦をめぐる昨年の日韓協議で、官邸で中心的な役割を果たした斎藤勁・前官房副長官との一問一答は次の通り。

――一昨年の京都での首脳会談後、官邸ではどんな話し合いがありましたか。

「東日本大震災関連や尖閣諸島をめぐる対応など多くの重要案件が山積していたが、野田首相や外務省幹部と協議を重ねた。元慰安婦の被害者のみなさんが高齢化しているなか、何とか合意に達したいと考えた。もっとも大切なのは日本として、どうやって被害者に気持ちを伝えるかということだった」
「そこでまず(昨年の)3月に当時の佐々江賢一郎・外務次官が訪韓し、外交通商省(現・外交省)の次官と、李明博(イミョンバク)大統領の実兄で日本通で知られた李相得(イサンドゥク)さんらに日本政府としての基本的な考え方を伝えた」

――韓国側に示した、三つの提案はこれまでの日本の姿勢からはかなり踏み込んだ内容ですね。

「このまま問題を放置すれば、両国関係は大変なことになるという意識が官邸にも外務省にもあった。外務省が、ギリギリこの線までなら、と決断した」

――韓国側の反応は。

「それがしばらくたって、受け入れられないという返事が来た。どういうことなのかと昨年4月、今度は私が野田首相の親書を持って直接韓国に乗り込んだ。基本的な考え方は佐々江次官が伝えた内容と同じだが、私自身が日韓関係や平和問題にかける思いなど、1時間以上にわたって話し、政権として解決する意思があるということを、官房副長官の立場から強く訴えた」

「だが、具体的な中身に入る以前の話として、受け入れられないという。慰安婦問題の支援団体の反発を気にしたのだろう。私は率直に言って、韓国政府はこれまで支援団体と親身になって話し合ってきたのか、と思った。正直がっかりした」

――夏には大統領が竹島に行き、日韓はいっそう険悪な空気に覆われました。

「春に我々が提案した時、うまくいっていれば竹島に行くような事態は避けられただろう。竹島訪問後、めちゃくちゃになった日韓関係を見て韓国側もことの重大さに気づいたのか、秋から慰安婦問題で急接近し始める。かえすがえすも残念だ」

――秋の接近とは。

「韓国政府の人事異動などで日本通が減っていき、外交ルートは機能しにくくなっていた。だが解決せねばならない問題だという我々の思いは変わらなかった。私は首相と直結していた。韓国側でも大統領に意思を伝えられる人がいれば、と思っていたところ、大統領の側近が特使として韓国からきた」

――話は進みましたか。

「いっきに進んだ。大統領からも『解決の意思あり』と伝えてきて、事実上のトップ同士のやりとりとなった。春の提案をもとに、首相が被害者にあてて書く手紙の表現だけが最終的に残った。韓国側からは特使が複数回にわたって来日し、文言を詰めた。12月に韓国の新大統領が決まるので、そこがリミットだろうと。可能なら11月にプノンペンである東南アジア諸国連合(ASEAN)関連会議の際の会談で、両首脳が合意できるのが望ましいと考えていた」

――どうして実を結ばなかったのですか。

「詰めの協議をしているうちに、首相が党首討論で解散を宣言してしまい、一方で韓国も完全に大統領選モードに入っていた。表現は、やる気さえあれば乗り越えられる問題だった。もう少し時間があれば合意できていた」

――日本には、慰安婦問題に否定的な主張もあります。合意後の反発を予想しましたか。

「どの政党であれ、平和国家でありたいと願っているのは同じだ。過去にはいろいろあったが、近隣諸国と仲良くしたいという思いも同じ。確かに日韓は基本条約を結んだが、それですべてが解決したわけでもないし、一方で課題を克服できないわけでもない。私たちが何か逸脱したことをしたのでは決してない」

――慰安婦問題の支援団体は日本の法的な責任の認定を求めており、納得させられないのでは。

「昨年、解決に向けた努力をする中で、日韓の支援団体の方々とも会った。団体側も実際にはかけ離れた主張をしているわけではないことがわかった。日本側の提案に一定の評価さえも受けたほどだ」

――日韓で政権が代わった今も、政治の責任で解決を目指すべきだと思いますか。

「昨年、日中韓首脳会談が開かれた北京では、3カ国の学生たちが迎えてくれた。京都の立命館大と韓国・釜山の東西大、中国・広州の広東外語外貿大の学生が2年間、3カ国を巡回して授業を受ける『キャンパス・アジア』のメンバーたちだ。政治の関係がどうであろうと、学生たちは一緒に毎日を過ごす。市民同士の交流に比べ、完全に政治の方が後れをとってしまっている」
「政治の責任は国民の命と安全を守ることなどというが、何もそれは現在のことだけではない。将来の国民の安全を守るのも政治の責任だ。地域を安定させねばならない」

――昨年の協議がいつか日の目をみる可能性があると思いますか。

「新政権になったので、昨年の話をそのまま再開させるのは困難だろう。ただ、双方が歩み寄り、合意が近かったのは事実。それをどうみるかは安倍晋三首相の判断だ。7年後の東京五輪が決まった。平和の祭典がアジアで開かれるのなら隣国との関係もちゃんとしたい。日本はしっかり歴史を見つめて歩んで行くのだと、アピールできるチャンスでもある」

「もし政府間ではどうしても時間がかかるというのなら、市民レベルで小さな集まりを重ね、どう解決するのかを徹底的に話し合って共通の認識を作っていくべきだ。その次に非公式にこれまで問題解決にかかわってきた人たちが加わり、最終的に両政権に上げていくしかない」

――日韓関係は楽観できますか。

「これまで培ってきた市民交流や経済の結びつきは健在だ。アジアでエネルギーを融通しあうなど、協力は不可欠。民間レベルでどんどんやって政治を動かしてほしい」(論説委員・箱田哲也)



斎藤勁(さいとう・つよし) 横浜市議、参院議員を経て昨年11月まで民主党衆院議員。11年9月から野田政権で官房副長官。68歳。

朝日 2013.10.8

日韓慰安婦協議「合意間近で衆院解散」 斎藤勁・前官房副長官に聞く

野田政権で慰安婦問題の政治決着を目指した斎藤勁・前官房副長官に聞いた。

「一昨年の日韓首脳会談後、野田佳彦首相や外務省幹部と協議を重ねた。大切なのは日本政府として、どうやって被害者に気持ちを伝えるかということだった。そこでまず昨年3月に当時の佐々江賢一郎・外務次官が訪韓し、外交通商省の次官や、李明博(イミョンバク)大統領の実兄で日本通の李相得(イサンドゥク)さんらに基本的な考え方を伝えた」

「従来よりかなり踏み込んだ内容を韓国側に示した。外務省がギリギリこの線までならと決断した。だが、受け入れられないという返事が来たので、今度は私が野田首相の親書を持って韓国に乗り込んだ。解決する意思があるということを強く訴えたが、それでもダメだという。慰安婦問題の支援団体の反発を気にしたのだろう」

「だが、昨年夏に大統領が竹島に行き、めちゃくちゃになった日韓関係を見て韓国側もことの重大さに気づいたのか、秋から慰安婦問題で急接近し始めた。大統領側近が特使として韓国からきた」

「大統領側が『解決の意思あり』と伝えてきたため話は一気に進んだ。日本提案をもとに、首相が被害者にあてて書く手紙の表現だけが最終的に残った。特使は複数回にわたって来日した。12月に韓国の新大統領が決まるので、そこがタイムリミットだろうと」
「だが、詰めの協議をしているうちに、首相が解散を表明してしまった。韓国も完全に大統領選モードに入っていた。表現は、やる気さえあれば乗り越えられた。もう少しだった」

「どの政党であれ、近隣諸国と仲良くしたいという思いは同じ。日韓は基本条約を結んだが、それですべてが解決したわけでもないし、課題を克服できないわけでもない。私たちが何か逸脱したことをしたのでは決してない」

「日韓の支援団体とも会ったが、かけ離れた主張はしていなかった。昨年の話のまま協議を再開させるのは困難かもしれないが、双方が歩み寄り、合意間近だったのは事実。それをどうみるかは安倍晋三首相の判断だ。東京五輪の開催も決まっただけに、(慰安婦問題の政治決着は)日本が歴史を見つめていくのだと世界にアピールできるチャンスだ」

(論説委員・箱田哲也)

朝日 2013.10.8
http://digital.asahi.com/articles/TKY201310070681.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201310070681

2013年10月7日月曜日

日本人慰安婦 1

「登志子」の場合

坂を登った閑静な住宅街の一角にあるその養老院は、ひっそりとしたたたずまいだった。白いモダンな建物は、まだ建ってまもないのだろう、ひときわ白さを誇っている。千葉県の木更津にあった第二海軍航空廠が設置した慰安所を調べていた私は、そこにいた元軍人と話すうちに、三軒町の慰安所にいた日本人「慰安婦」であった女性の所在を知ることになった。

 当時木更津には、三軒町と六軒町という慰安所街があった。三軒町にあった慰安所は、「純粋な」軍隊慰安所である六軒町とは異なり、一般客とともに軍人も来ていたところだ。しかし国内の慰安所の実態がなかなか見えない中にあって、そこにいた女性に会えるということは大変な巡り合わせだった。

 彼女がいる養老院に電話をして、「戦争のときの話を聞きたい」旨を伝えたが、見ず知らずの者からの突然の電話に彼女は困惑し、言葉は途切れがちだった。しかし彼女は、その電話で私か訪ねていくことを承諾してくれた。

 看護婦さんに、玄関を入ったホール脇の応接室に通され、私は彼女が姿を現すのを待った。

  「どうも、お待たせしました。寒い中をこんなところまでわざわざ……」

 軽い会釈をして入って来た彼女は、ここ十年ほど腎臓と肝臓を患っているのだと言いながら、顔色の悪い頬を両手で覆った。

  「寒いと辛いんですよ。まだここに入って1ヵ月ですから、なかなかここの空気に馴染めなくて。散歩に出られないので、廊下を歩くだけの生活です。ここにいる人はボケてしまっている人が多くて、友だちもできない。早くここを出たい……」

 夫が亡くなって十二年になる。しばらくしたら、夫の先妻の息子の家に引き取ってもらえるかもしれないと、茶碗で手を暖めながらかすかな期待を口にした。

  「この年になって、私の人生を聞いてくれる人に会えるなんてねえ……」

  一九一九年(大正八年)生まれの彼女の人生は、戦争を抜きにして語ることはできなかった。

  「私は埼玉の生まれなんですよ。父は新潟の生まれで、屋根まで雪が積もるような地で育ったけれど、母と結婚してから埼玉に移り住んでいました。父は鉄道に勤め、ごく普通の家庭だったのですが、私か十六になった年に、生後百日ぐらいの弟を残したまま、母は赤痢で亡くなってしまったのです。私は長女で、下には四人の弟と妹が一人いましたから、高等小学校を出るとすぐに私は弟たちの面倒をみるため家に入り、家族の世話に明け暮れました。

 ところが母が死んで四年後に、今度は父が脳溢血で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。弟たちの面倒は、長女の私にすべて降りかかってきたのです。父が残したお金はすぐに使い果たし、食べていくために私は働きに出なくてはなりませんでした。といって、その頃六人家族を支えるような給金をもらえる仕事は、そう簡単に見つかりませんでした。

 そんなとき、私の従姉妹が訪ねてきたのです。彼女は木更津の遊郭に五年間いたのですが、年季が明けたといって帰ってきました。そして私の事情を知ると、『あんたも木更津に行きなさい。私か紹介してあげるから』と勧めたのです。他に就職のあてもなかった私は、従姉妹の『そこに行けばお金が儲かる』という言葉に魅かれて、ついに行く決心をしました。

 鈴木楼に行き、契約を済ませると一二〇〇円の前借金をもらいました。二〇〇円は私の着物代などに当て、残りの1000円を家族に渡したのです。弟たちには、住み込みの工場に働きに出るのだと言いました。どうして遊郭に入るなどと言えたでしょう。家にはばあやか来てくれることになり、弟たちの面倒の心配はなくなりました。

 私か鈴木楼に行ったのは、昭和十六年のことです。私は二三歳になっていました。三軒町には、鈴木楼のほかにあと二軒の遊郭があり、女は三人から五人ぐらいの小さな家でした。六軒町は航空隊ができてから建てられたものですが、三軒町は昔からあった遊郭です。鈴木楼には(私のほかにも親に売られて秋田から来た娘もいました。主人は私に『登志子』という名前をつけました。ほかにも『かおる』『絹子』『信子』といった女性がいました。

 店を入ったところに私たちの写真と名前が貼ってあり、客はそれを見て女を決め帳場でお帳場さんに料金を払い、選ばれた女が呼ばれたのです。そこに来るのは一般人に混ざって兵隊もいました。しつこい人やいやなことを要求する人もいて……ひどい乱暴を受けることはありませんでしたが。

 下士官は一日おきに外泊ができ、日曜日に限らず平日でもやってきました。来ても戦争のことは一言も話しませんでした。私も聞きはしませんでした。ただ、兵隊が大勢来た日など、兵隊たちはぼっそり『明日、敵地に行くんだ』と言ったものです。そうすると私もついつい慰めてあげたいという気持ちになったものです。あの頃は、こんな商売でもお国のためになるんだと思っていました。

 一時間二円で、一日十人から十二、三人ぐらいがやってきました。一晩に泊まりが五人いて、かけもちで回ったこともあります。いつも眠くて眠くて、朝飯を食べるとすぐに眠ってしまうのですが、すぐにまた起こされて。

 鈴木楼にいったとき、私は処女でしたからとても辛かった……囗では言えません。でも、逃げ出したら家族に迷惑がかかると思うと、それもできませんでした

 それでも楽しみもあったんですよ。毎週、木更津の映画館に行くことが許されていたんです。その帰りにおしるこを食べたり葛餅を食べたりしたこともありました。楽しい思い出といったら、それだけですね。わずかな小遣いの使い道でした。給料は、十日ごとに計算されましたが、借金や食いぶちとか雑費などが引かれて、手元には十円ぐらいしか渡されない。それも映画を観たり髪結いさんに行ったりすればすぐに無くなってしまいます。それでも弟たちのことを考えると、少しでも貯金しなくてはと思い、日掛けで一日五〇銭を貯金のため主人(楼主)に渡しました。暮れになると主人からもらって、正月の準備に使うようにと、家に送りました。もちろん正月に私か帰ったことなどありません。弟たちには手紙を出しました。工場の仕事が忙しくて帰れないと・・・・・・。

 兵隊の場合は、必ずコンドームを二個ずつ持ってきました。性病の検診は週に一回、千葉から来る医者に診てもらいました。木更津にも産婦人科の医者はいたのですが。そのときに梅毒の予防だといって六〇六号の注射を射たれました。検査のときには、他の家の女たちと一緒になるのですが、ほとんど話すことはありませんでした。愚痴をこぼすことはあっても、みんな自分の素性は話しません。こんな中で、親しい友人なんてできるわけがないですよ。みんな自分のことで精いっぱい。他人を頼ろうなんて考えもしませんでした。

 ただ私は、そこに来た一人の男と気持が通じ合って、結婚の約束をしていたのです。ところがそのうち彼は兵隊にとられて中国に行ってしまいました。それでも私は、彼が迎えに来てくれるのを待っていました。

 終戦になったある日、突然その人が『ただいま』と言って帰ってきたんですよ。もう嬉しくて嬉しくて。その少し前にいろいろあって、警察が私の借金の残額を調べてくれたことがあり、もう返済が済んでいることが分かっていたんです。それで私はその人と結婚し所帯をもちました。一緒にいた女の中にはそのままGHQ相手の慰安所に残った人もいます

 でも、私の幸せも朿の間でした。四年後に夫は事故で亡くなってしまったのです。何年かして再婚しましたが、結局子どもは生まれませんでした

 いつのまにか外は、風が出てきた。大きなガラス窓の外で、手入れの行き届いた木々が寒そうに枝を揺らしている。長い時間が流れていた。

 沈黙をおいて、彼女はポツンと言った。

  「自分の人生を振りかえると、ただただ情けない。弟や妹のために仕方なかったけれど、両親さえ生きていたなら、私はこんな人生を歩まなくても良かったのにと、ついついそんなことを考えてしまいます。生きていくためだったけれど、一度狂った人生は、もう二度とやり直すことなんてできないですよね。恨むといっても、だれを恨むわけではないが……」

 慰安所政策が押し進められた裏側には、女たちの人生の苦悶がある。経済困窮を背景に遊郭に吸収されていった日本人女性のケースも、たとえ騙されたり強制的徴集ではなかったにしろ、時代の犠牲としてだけで見つめるには、彼女の苦悶はあまりに出口なき彷徨ではないだろうか。

日本軍「慰安婦」を追って P.26-31


2013年10月5日土曜日

Herミュージアム(日本語) Q&A 1

日本軍「慰安婦」とは何ですか。

日本軍慰安婦は、日本が起こした戦争に連れて行かれ、日本軍の性的奴隷にされた女性のことを言います。日本は朝鮮を侵略しただけでは物足りず、アジア全域へ、太平洋の島々まで侵略する戦争を起こしました。このように戦争を仕掛けた日本は、戦争中の日本軍の士気を高揚すると同時に性病を防止するため、1930年代初めから朝鮮とアジアの若い女性たちを強制的に連行し、日本軍慰安婦制度を作りました。

慰安所はどんな所ですか。

日本軍「慰安婦」が強引に閉じ込められ、性的に搾取された場所です。日本軍慰安所は、1932年、中国の上海地域に設置された海軍慰安所が初めてであるとされていますが、実際には、それよりもずっと前に遡ると主張する学者もいます。

実際に、韓国の日本軍「慰安婦」被害者の中には、1931年、中国に連行された方もいました。日本が南京を占領した1937年12月以降になると、日本軍慰安所の設置も本格化していきます。

慰安所は日本、朝鮮、中国、シンガポール、マレーシア、ビルマ(現在のミャンマー)、フィリピン、インドネシア、台湾など、日本軍が戦争をしたり、駐留する先々に設置されました。慰安所は日本軍司令部が直接造って運営に当たることもありましたが、部隊の近くに日本の民間業者、または別途の管理人を置いて軍が統制する慰安所もありました。つまり、慰安所は、日本軍の指揮命令体系と組織的統制の下で、軍人の管理者、民間事業者、または紹介業者と被害女性で構成されていたと言うことができます。ほとんどの慰安所は入り口に「軍票(利用券)」やお金をもらって軍人の出入りを確認する管理人席があり、長い廊下に沿って一人がやっと横になれるような小さな部屋がずらっと並んでいて、これらの部屋で日本軍「慰安婦」は日本の軍人たちに強制的に性的暴行を受けました。

日本軍「慰安婦」はどのように、どこへ連れて行かれましたか。

日本軍「慰安婦」は、シンガポール、ビルマ、台湾、インドネシア、中国、日本、太平洋ラバウル島、パラオなど日本軍がいるところならどこにでも連れて行かされました。しかも、朝鮮の釜山と大邱にも慰安所がありました。当時、日本の植民地にされた朝鮮の人々は非常に苦しい生活を強いられていました。そのため、「工場に就職を斡旋してお金を稼ぐようにしてあげる」、「看護婦にしてあげる」、「勉強ができるようにしてあげる」などとだまして動員することもありました。後になると、朝鮮を支配していた朝鮮総督府が日本軍からの要請を受け、警察と憲兵などを動員して暴力的な方法で女性を強制的に連行することもありました。特に、世事に疎い農村部の人々が多く徴集されました。ある女性は、友達と写真館で写真を撮って出てくる時に警察に連行されたり、精米所の秤で体重を量られ、大人並みの体重だからということでトラックに乗せられ、日本軍「慰安婦」として駆り出された人もいました。

このように日本の植民地だった朝鮮の女性を日本軍「慰安婦」として動員した方法は、非常に恐ろしいものでした。だまされたり、強制連行された女性たちは、慰安所に配属されるまで、日本軍の徹底的な監視を受けました。

日本軍「慰安婦」の生活はどうでしたか

強制的に連行された16~17歳の少女たちにとって慰安婦の生活は言葉では言い尽くすことができないほど酷いものでした。戦場で残酷になった日本の兵隊たちが、まるで獣のように慰安婦の女性たちに性的暴行を加えたため、子宮がメチャメチャにされるほど身体が傷つけられることもありました。あまりの痛さに兵隊を拒否すると殴られ、徹底的に日本軍に監視されたため、逃げることなど夢にも思わなかったのです。慰安婦生活を経験したある女性は、当時の慰安所での生活についてこのように語っています。「私たちはそいつらに動物扱いされた」と。

慰安所に到着した女性たちは、まず最初に名前を奪われました。両親に与えてもらった名前が消える代わりに、3番や5番など部屋番号で呼ばれたり、花子や公子など、日本名で呼ばれることもありました。慰安所によって一日4~5人の兵隊が入ることもありましたが、ほとんどの慰安婦は、通常一日に10人から20人、多い場合で一日に40~50人の相手をさせられたりもしました。兵隊たちが部隊の外で外泊する週末になると、朝から慰安所の前に長い行列ができ、その数を数えることさえできないほどでした。食事の時間を除いて一時もベッドを離れることができないくらいたくさんの兵隊たちが慰安所に押し寄せてきました。通常、女性たちが慰安所に到着する初日は将校たちに強姦され、次の日からは一般兵士に引き渡されました。兵隊たちに逆らうとしてひどく殴りつけられたり、ナイフを突き刺され殺されたりするなど、慰安婦の女性たちにあらゆる乱暴が加えられました。また、戦争中人手不足になると、日中は日本の兵隊たちの洗濯をさせられたり、負傷兵の看護に当たらせられ、夜になると、再び日本の兵隊を相手にさせられました。

たくさんの兵隊を相手にしていたため、性病にかからなかった慰安婦の女性は一人もいないほどでした。しかし、性病にかかると、病院に連れて行かれ、「赤い薬(ヨードチンキ)」を塗っておしまいでした。そのため、慰安婦の女性たちは、赤ちゃんを妊娠することができなくなりました。

慰安婦の女性たちは、逃げたくても、自分がどこにいるかも分からなければ、お金もなく、厳しい監視のため逃げることさえできませんでした。逃げても捕まって引き戻されると、死ぬほど殴られ、顧問されました。場合によっては、他の慰安婦たちの前で殴られることもありました。

日本が敗戦した後、日本軍「慰安婦」はどうなりましたか

日本が第二次世界大戦で敗戦した後、生き残った日本軍は、ほとんど日本に帰国しました。しかし、日本軍は、自分たちの慰安婦に対する戦時中の性犯罪の残酷さを世界に知られることを恐れていました。そのため、日本軍は、獣のように自らの性欲を解消する対象にしていた慰安婦たちを敗戦と同時に生き埋めにしたり、自殺を強要するなど、あらゆる手口で殺ましたが、生き残った何人かは戦場にそのまま置き去りにされました。戦場に残された慰安婦たちは、当時、連合国軍の捕虜収容所に収容された後帰国船に乗ったり、物乞いをしながら数か月をかけて歩いて故郷の家に帰ったり、強制的に徴用された他の朝鮮の人々に助けられて一緒に帰国行列に混じって帰ってくる場合もありました。しかし、多くは日本軍によって殺されたため帰ることができず、ひどい病気にかかってまともに歩けない状態だったり、故郷に帰るすべを知らず、遠い他国に残されたままの場合も数多くありました。

そのため、今も中国には、多くの日本軍「慰安婦」被害者たちが残っているわけです。「慰安婦」生活をしていたことが家族に分かれば追い出されると、とうとう故郷に帰ることを放棄し、残ってしまった慰安婦もいました。これまで「慰安婦」として連行された女性たちが何人で、戦争が終わった後生き残った人は何人なのか、またそのうち帰国したのは何人か、正確に把握されていません。

現在、元日本軍「慰安婦」被害者の方々はどのように暮らしていますか。

韓国に帰ってきた慰安婦被害者たちは、取りあえず実家に戻りましたが、故郷で長く暮らすことはできませんでした。それは、当時の韓国社会の中で、元日本軍「慰安婦」の女性たちが冷たい目で見られていたためです。彼女たちはほとんど故郷を離れて一人で都会に出て住み込みのお手伝いをしたり、食堂の清掃などをしながら苦しい生活を強いられました。一部結婚した女性もいましたが、ほとんど結婚せず一生一人で暮らしました。結婚した女性の場合でも、まだ大人になっていないうちに「慰安婦」生活を余儀なくされたことから健康を悪くしてしまい、子供を持つことができませんでした。また、後になって夫に「慰安婦」だったことが発覚するなど、普通の結婚生活を送ることができなくなることもありました。

日帝強占期(日本帝国による強制占領期=植民地時代)時代に慰安所に連れて行かれ、慰安婦生活を強いられた女性たちは、病気がちになり薬や治療なしでは生きていけなくなってしまいました。

日本の兵隊たちに殴られた後遺症で耳がよく聞こえなくなった女性や腕をしっかり伸ばすことができない女性、日本の兵隊がナイフを振り回した傷跡のため正常な生活ができない女性もいます。このように惨めな生活を送っているにもかかわらず、日本政府からは全く賠償が行われていません。

しかし、1990年から韓国社会では正式に日本軍慰安婦の問題の議論が始まり、日本軍「慰安婦」問題を解決しようとする多くの人々の努力に支えられ、世間の見る目も大きく変わりました。韓国政府は1993年から元慰安婦の女性たちに生活費や医療費支援などを行っています。

水曜デモとは何ですか

日本軍慰安婦だった女性たちが韓国ソウルの日本大使館前で毎週水曜日に行う集会のことです。日本政府に対し、日本軍慰安婦問題の真相究明や公式謝罪、法的賠償などを求めて1992年1月8日から始まりました。この日初めて慰安婦問題に関心を持つよう世の中に訴え、6つのこと(真相究明、犯罪認定、公式謝罪、法的賠償、歴史教科書への記録、追悼碑と資料館設置)を実行するよう日本政府に要求しました。しかし、日本政府は日本軍慰安婦問題に政府と軍が介入したことはなく、民間人が個人的にやったことであると主張しています。

宮沢首相の韓国訪問日に合わせ、1992年1月8日に初めて日本大使館前に集まって首相へ慰安婦問題を解決してくれるよう求める集会を行ったのが水曜デモの始まりです。それ以来、慰安婦問題が解決するまで、毎週水曜日の正午に日本大使館前で集会を行うことにし、これまで14年以上続けられてきました。

水曜デモは、最長時間続けられている集会として世界的にも広く知られています。特に、2004年3月17日には第600回水曜デモを全世界で同時多発的に実施し、世界各地のメディアに取り上げられ注目を集めました。

現在、日本政府は慰安婦問題をどのように解決しようとしていますか

日本政府は日本軍「慰安婦」問題に対して何の反応も示していません。日本政府は、彼らが犯した戦時中の性犯罪の事実を認めようとしないか、責任を回避しようとばかりしています。しかも、元日本軍「慰安婦」の方々に対し、「自ら慰安婦になったか、あるいはどうしようもない戦争の結果だった。」などと妄言をしています。国連などの国際機関では日本軍「慰安婦」問題の原因が日本にあるとし、積極的に解決するよう働きかけていますが、日本政府は全く受け入れていません。それだけでなく、日本史の教科書に慰安婦問題を記述しなかったり、日本軍「慰安婦」を中傷し、偽りの記述を載せた教科書を日本の中学・高校で教材として採択することを黙認しています。

1993年の「河野談話」とは何ですか

1993年8月、河野洋平官房長官が日本軍「慰安婦」に対する日本軍と軍の強制性を認めた談話です。河野長官は、慰安所は、当時軍当局の要請によって設置されたものであり、慰安所の設置、管理および慰安婦の移送に対し旧日本軍が関与していたと発表しながら、日本軍「慰安婦」にお詫びと反省の気持ちを申し上げると述べました。しかし、2012年に政権を握った、当時自民党の安倍総裁は、河野談話と植民地支配、侵略の歴史を謝罪した「村山談話」(1995年)を修正すると主張しており、韓国だけでなく米国の議員らが抗議書簡を送るなど議論を呼んでいます。

過去に起きた日本軍「慰安婦」問題の解決が重要なのはなぜですか

確かにこの問題は、過去の歴史ですが、日本軍に動物以下の扱いをされた日本軍慰安婦の女性たちがまだ生きており、彼女たちが全員なくなる前に必ず解決しなければならない、現在の問題でもあります。過去の誤った歴史を深く反省し、正しい歴史認識を持たなければ、過ちが再び繰り返される可能性があります。

特に、日本軍「慰安婦」問題のように、残酷な戦時中の性犯罪が日本政府によって公式に行われたことに対して謝罪と賠償を受けなければ、日本は自分たちの先祖が犯した過ちを繰り返してしまう恐れがあります。そのような点で日本軍慰安婦問題は、過去の問題で終わるのではなく、現在と未来につながっているのです。

外国の事例からも、いまだに戦争中の国々は、こうした問題は終わっていません。今もボスニア内戦とか、東ティモール独立運動の過程で女性たちは、残酷にレイプされたり、慰安婦と同じように、集団的に性的虐待を受けています。そのため、日本軍「慰安婦」問題は、過去の歴史に限られたものではなく、今も私たちの周辺諸国で経験している問題であり、絶対に起きてはならない問題でもありますので、今のうちに必ず解決しなければなりません。

洋の東西を問わず、戦時中に行われる女性たちに対するこのような犯罪に対しては、その人の魂と生活を両方とも破壊する反人道的犯罪であり、どんなに年月が経っても時間に関係なく、犯罪を犯した者は処罰され、被害者は賠償を受けるべきであると国際法に定められています。

Herミュージアム(英語) Q&A 1

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